説教

2019年2月10日

荒波を静める
岸 敬雄 伝道師


詩編 89:9〜10  マルコによる福音書 4:35〜41




 古代の時代の文学から、航海物語は人間の想像力を駆り立てるものがあります。子供の頃シンドバットの冒険やバイキングの物語、15少年漂流記、ロビンソン漂流記のようなものに心引かれたことがあります。
 聖書の中では、ノアの洪水、ニネベに行く途中巨大な魚に飲み込まれたヨナの話などがあります。
 これらの話の中で海が象徴しているのは、底知れぬ危険、茫漠とした海への恐れが現れです。ヘブライ人にとって、海は混沌とした状態を表し、そして、海は生と死とを授ける存在でした。創造者はこの海の水を後退させ、虚無から地を形造られたのでした。
 今日でも、海は危険な人を害に遭わせ易い場所であることは確かであります。海は、えせ船乗りにとって、自然の力により持て遊ばれる場所であり、神の御手によってのみ安全に航海できる所なのです。
 イエス様たちも、本日読まれた聖書箇所において、湖のほとりで多くの譬えを用いて人々に教えをほどこした後に、もう夕方となったので、「向こう側の岸にわたろう」とされたのであります。
 イエス様が乗られた船には、元漁師であったペトロ、アンデレ、ヨセフ、ヤコブなども乗り込んでいたと思われます。彼らは根っからの漁師だったのです。いわば船乗りのまさにプロです。
 イエス様を乗せて漕ぎだした船は帆掛け船ではなく漕いで進む舟であることが分かります。
 船が漕ぎだした時にイエス様は、ともの方で眠っていたと言うのです。このイエス様が眠っている、と言うのは、イエス様が墓の中で眠っていたことを予見させるものでもあります。イエス様が寝ている時に湖に激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになっていったのです。それにもかかわらずイエス様は寝続けおられたと言うのです。
 この様な非常事態に対して弟子たちはイエス様を起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったのでした。弟子たちは、イエス様を信用し続ける事が出来なかったのです。ここに、まさに人間の弱さが表れています。イエス様が起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた時、荒波は消え去り、なぎとなったのであります。
そして、イエス様は「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われたのです。自分を起こしたことも、突風や荒波を恐れたことを叱ったのでもありません。イエス様をまだ信じないことを、叱ったのであります。
 この荒波は私たちにとっては、この世の中での荒波を表している、と言うようにとらえることも出来ます。この荒波に対するには、人間の技術が必要なのではありません。信仰が必要なのです。
 イエス様がねむっておられたのが、イエス様が死んで土の中におられたことを象徴するとするならば、このイエス様が起き上がり、海を叱りつけてなぎとなったのは何を象徴しているのでしょうか。また、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」言われるのは、私たちのこの世の航海にどのような関係があるのでしょうか。
 私たちのこの世の航海の中でも、神様の加護があるとは思えないような突風が吹き荒波が押し寄せ、波によって船が沈みそうになる、そのような不安を感じる場面も多くあります。そして、寝ていらっしゃるイエス様を起こしたくなるのです。イエス様に私たちは溺れそうです。と訴えたくなるのです。寝ているかと思えるイエス様でも必ず近くに居るイエス様が「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とお叱りになります。
 自分達では決して立ち向かう事が出来ない大自然の力をおもわせてしまう力をお持ちのイエス様が。まさに森羅万象のものを従わせる力、私たちにとっては恐れを感じるばかりの力をお持ちのイエス様、この力を信じ切れていない私たちの弱さをもご存知でおられ、お叱りになるのです。弱さを知った上で近くに居て下さるイエス様に従い続けて行こうではありませんか。








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