説教

2018年4月15日

主はすべて知っておられる
岸 敬雄 伝道師


箴言 5 章 21 節:ペトロの手紙一 2 章 21〜25 節



本日読まれました聖書箇所の少し前の2章の18節からで召し使いたちに対する心がけが言われています。多分に時代的背景があることを考慮しなければなりませんが、心から敬って主人に対し仕え、善良で寛大な主人だけではなく、無慈悲な主人に対してもそうするようにと勧めています。そして、不当な苦しみを受けることになっても神が、それをお望みなのだとわきまえて苦痛に耐え忍ぶならば、それは御心にかなうことだというのです。

不条理な事を受け容れて全うするのは理不尽に感じますが、された方の代表として、イエス・キリストが描かれています。

本日読まれました聖書箇所は、ただ、当時に奴隷のような境遇にあった人、迫害のさなかにあった特別の人に言われているのではなく、すべての召された者に対する勧告として、私たちすべてに言われていると受け取ってもよいのではないでしょうか。

神の御心にかなうことをする者たち、すなわち召された者に対して、つまり、自分のこととしてお聞きいただければ幸いです。

まず初めに、召した人に従う、と聖書には言われています。誰が私たちを召したのでしょうか。会社なら、会社を管理する人かもしれませんが、教会では、頭はイエス・キリストです。そして、イエス・キリストを召されのは、天父なる神であります。そして、父なる神の召しに答えてイエス・キリストは私たちの為に苦しみをお受けくださったのです。このことは、確かな事でありましょう。そして私たちを召してくださった主人であるイエス・キリストご自身が私たちのために苦しみを受け、そして、召された者として、その足跡に続くようにと、模範を残してくださったからです。

自分の正しさを主張せず、ただただ裁きは正しく裁かれる方、すなわち、父なる神に任されたと言っているのです。イエス・キリストがお受けになった傷は、私たちが癒されるためのものであると言われているのです。まさに、イエス様の傷によって、私たちは神様との関係を正しくしていただき、癒されたのです。

箴言では、人の歩むべき道が表されています。その中で、本日読まれました箇所、箴言5:21において、箴言の作者は主に対して、人の歩む道は主の御目の前にある、と言っています。主が全てを見ておられる、その前に人の道はあるというのです。主は私たちの道を見ていてくださいます。そして、その道を主はすべて計っておられる、というのです。計ってと言われる言葉は、原語のギリシャ語の意味を見ますと、平らにする、ならす、と言う意味があります。口語訳聖書では、見守っておられる、と訳されています。すべてを見ておられる主は、決して冷たく見守っているだけではありません。温かく見守っていてくださるのです。

私たちが歩む道が、時として辛いものと感じたとしても、主は暖かく見ていてくださいます。その証明としては、私たちの為に一番大切な独り子を十字架に送られるまでに私たちを愛してくださっているのです。主が全てを見て、分かっていて計って下さるのです。私たちは何も心配する事無く主を信頼して歩み続けて行けばよいのです。



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