説教

2018年4月8日

見ないで信じる
岸 敬雄 伝道師


イザヤ書 45 章 11 節:ヨハネによる福音書 20 章 24〜29 節



弟子たちは、イエス様が十字架にお掛かりになり、命を落とされてから、迫害に合うのではないかと恐れを抱いて、みんなで一つの部屋に集まっていたのでした。そこにイエス様が訪れてくださったのです。そして、「平安があなた方にあるように」と言われたのです。その上、手とわき腹をお見せになったのです。その時、弟子の様子は喜んだと書かれています。そして、息を吹きかけられて、「聖霊を受けなさい」と言われました。その後に、イエス様は、御父がイエス様を遣わしたように、弟子たちを世にお遣わしになったのでした。そして、こう言われたのです。「あなた方が許すものは許され、ゆるさないものはそのまま残る、」と。この出来事は、いわばヨハネ版ペンテコステ、聖霊降誕のお話になります。この後に、ユダヤ人の迫害を恐れて家に閉じこもっていた弱虫な弟子たちは、イエス様のように殉教も恐れない力強い弟子へと変貌したのです。

本日読まれました聖書箇所は、その続きで、さらに8日がたった日のことです。イエス様に会ったと言う弟子たちに対して、八日前の当日、その場にいなかった十二弟子の一人、トマスが、私はイエス様にあった話を決して信じない、主の手の傷に触れ脇腹に手を入れてみなければ決して信じられないと言ったのです。

トマスは十二人弟子と言われ、イエス様が伝道を行われた公生涯と言われる約3年間ずっとイエス様と行動を共にし、一番イエス様のことを良く知る、身近に居た特別な弟子でした。もちろん、復活についても一番良く教えを受けていました。しかし、そんなトマスが、仲間が「わたしは主を見た」と言っても信頼して信じる事が出来なかったのです。
トマスに信仰がなかったから、復活した事実を信じられなかったのでしょうか。そうではありません。

トマスはイエス様が死なれると言った時、自分たちも一緒に行って死のうと言ったほど、イエス様を信じていました。しかし、トマスは、イエス様を勘違いして理解していたのかもしれません。ローマの支配に反抗する、いわば革命家の一人と考えていたのかもしれないのです。全人類を罪から救う救い主だとは、わかっていなかったのです。それだけに自分の考えを曲げる事が出来なかったのです。

トマスには、十字架の上で力なく苦しまれて死んでいく、イエス様の苦しみが誰のためなのかを理解できなかったのです。

トマスは、現実主義者だったともいえましょう。そして、八日の後に、今度はトマスも共にいる時に弟子たちのもとに再びイエス様が訪れてくださったのです。

そして、イエス様は、「あなた方に平和があるように」と言われたのです。ユダヤ人に迫害されるのではないかと恐れていた弟子たちには、不安な気持ちに対して平安があるようにと言うのは正しい事でしょう。しかし、それと同時に、現在聖書を読んでいる私たち自身に対しても、イエス様は平安があるようにと語りかけてくださっているのではないでしょうか。

イエス様は全人類の救い主です。全人類に救いの機会を与える為に十字架におかかりになり、苦しまれ、命をも捧げられました。そして、私たちの罪を贖って下さり、復活することによって、私たちの最も大きな敵である死をも克服してくださったのです。疑い深いトマスの所にもイエス様は訪れてくださいました。そして、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われたのです。トマスは、この時本当にイエス様が自分の主であり神であることを認識したのです。しかし、それは見たからでしょうか。イザヤの時代にも、「あなた方はしるしを求めるのか」と主は言っています。人はいつの時代もしるしを求めてきたようです。しかし、本当の信仰は神様から与えられるものであり、信仰は、見たから信じるものでは無く、神様によって信じさせていただくものなのではないでしょうか。



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