説教

2018年4月1日

命の道
岸 敬雄 伝道師


ヨハネによる福音書 20 章 1 ~ 10 節:詩編 16 篇 7 〜 11 節



本日は主イエス・キリストの復活をお祝いするイースターです。

私たちの信仰は、この復活の出来事にかかっていると言っても言い過ぎではないのではないでしょうか。昔、イエス様と弟子たちが暮らしていた頃の、イスラエルの人々の礼拝は土曜日に行われていましたが、今の私たちは、イエス様が復活して下さった事を記念して、週の始めの日、日曜日に毎週礼拝を行っています。なぜ、それほどまでに、復活というのは大切な事なのでしょうか。それにしても、復活とはまことに不思議な事です。イエス様は、十字架におかかりになる以前から弟子たちに復活する事を、お話をしてくださっていました。苦しみを受けた後、三日目に復活すると、確かに言われていたのです。しかし、弟子たちは、イエス様が本当に復活されるまで、その事の本当の意味を理解することができていなかったのです。

今日読まれた聖書に出てきている様に、復活の出来事は、弟子たちの前に初めて現われたのは、墓が空になっているという事実でした。

イエス様は、金曜日に十字架にかけられてお亡くなりになりました。その日のうちにお墓に入れられたのです。そして、お墓には大きな石で蓋がされました。そこには誰か来て変な事でもしない様にと番をする兵士まで置かれていたのです。それなのにです、お墓は空になっていたのです。先日おさめられたイエス様の体がなくなっていたのです。誰かが持って行ってしまったのか、この時点では、誰にもわかりませんでした。

最初にイエス様の墓を訪れたマクダラのマリアも、途方に暮れて泣いていたのです。そんな時、イエス様の方からマリアよ、と呼びかけて下さったのです。そして、初めてマクダラのマリアは、イエス様の事に気が付いたのです。初めて復活したイエス様に気が付いたのです。

結局、イエス様の方から近づいて呼びかけて下さらなければ、復活の真実は、わかる事は出来なかったのです。だから、教会に来ていない人たちが、復活の話を聴いて信じられなそうにしていたとしても、何にも不思議ではないのです。

でも、今教会に神様から呼びかけられて集まってきている人たちは、みんなイエス様の復活を信じています。どうしてでしょうか。それは、みんな復活したイエス様から声をかけられているからです。いつ声をかけられたか、そんな声は聞いた事が無いよ、と言われる方もいるかもしれません。イエス様の声は、普通に、普段お話を聴いているような声で話しかけてくるわけではありません。聖書を読んでいたり、イエス様のお話を聴いていたりする時に、このことは本当ですよ、と心に話しかけてくれたり、暖かい気持ちにさせてくださる事が有るんです。そのようにして、イエス様は、私たちに話しかけてくださるのです。そして、私たちに復活の事実を理解させて下さるのです。

復活の事実を知ったものは、まさに本日読まれました聖書箇所のもう一つ、詩編16編で言われている様に、神様はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごとさとしてくださいます。

そして、10節、11節で言われている様に、主は右にいるので、わたしは揺らぐことがありません。

わたしは絶えず主に相対しています。言ってみれば何時も神様とお会いしているのです。私たちがイエス様の復活を信じる事が出来るように神様がしてくださっているのと同じように、神様は他のことでも多くの事で語りかけてくださっているのです。

だから、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ、と詩編の作者はいうのです。そして体も平安だというのです。平安とは気持ちが落ち着いていて、安心できるような、体もリラックスしているような状態です。

そして、この詩を作った詩人は、神様は私たちを死んだままにしておかなくて私たちに命の道を教えていくださると言っているのです。命の道とは、まさに、復活されたイエス様に従う道なのです。



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