説教

2017年12月31日

最終的な神の救い
大坪章美 牧師


ヨハネによる福音書 3 章 3 ~ 16 節



モーセはある日、舅であるエトロの羊の群れを飼っていて、「神の山、ホレブに来た」と、記されています。モーセは、ここで、神との最初の出会いを体験したのでした。神様はヤコブとその一族がエジプトに降るにあたって、4百年余りも前に、ヤコブに現れて以来、初めて、ここで、モーセに現れて下さいました。

神様は、モーセに命じられました。「今、行きなさい。わたしはあなたを、ファラオのもとに遣わす。わが民、イスラエルの人々を、エジプトから連れ出すのだ」と、仰いました。神様は出エジプト記3:8節で仰っています。「わたしは降って行き、エジプト人の手から、彼らを救い出す」と、言われています。これと、モーセが遣わされることとの間に、矛盾はありません。神様は、通常の場合、ご自分の考えを実現しようと、喜んで服従する、神の僕たちを通して、働かれるのです。

この、神の救いが、最終的に起こりました。モーセが、神の召命を受けた時から、千三百年も後の、所はエルサレムでの事です。イエス様は、ユダヤ人の過ぎ越しの祭が近づいていたので、ユダヤのエルサレムへ行かれました。ある夜、ファリサイ派に属する、最高法院の議員であるニコデモという人が、密かに訪ねて来た、というのです。彼は、密かにイエス様を信じていましたが、ファリサイ派に属する議員である事から、ユダヤ教の会堂から追放される危険がありましたので、公けに、信仰告白をすることはありませんでした。

イエス様は仰いました。3節です、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と、言われたのです。「“信仰”とは、主なる神様を、知識として理解するのではなくて、自分自身が“新らしく、生まれ直すこと”である」と、仰っているのです。ニコデモには、仰っている意味が、分かりませんでした。「人間の出産を、2度、経験しなければならないのか」、と勘違いをしてしまっています。

イエス様は、「誰でも、水と霊とによって生まれなければ神の国に入る事は出来ない」と言われました。ニコデモが、「霊の力によって、新しく生まれ直す」という事の意味を理解できなかったのには、理由がありました。神を信じている敬虔なユダヤ教徒のニコデモでしたが、心の奥底には、「神の力に頼らなくても、自分の力で生きて行ける」という自覚を持っていたのです。

イエス様が仰った、「上からの力によって、生まれ直す」という事が救いの条件で、神のご支配を見る為の条件でしたが、“自分自身の力”しか信じないニコデモには、理解できない事でした。イエス様は14節で話されました、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が、人の子によって、永遠の命を得る為である」と仰いました。モーセが「荒れ野で蛇を竿の上に上げた」という出来事は、民数記21:4節以下に記されています。

それは、スラエルの民が、シナイ山を後にして、愈々、約束の地に入ろうとする時でした。カナンには、巨人族アナクの子孫や、アマレク人等が障害になって、入る事が出来ず、やむを得ず、荒れ野を迂回するしかありませんでした。そのうち、砂漠の中で、家畜達は全滅していきます。この時、民は、神と、モーセに反抗して、「あなたがたは、何故、わたしたちをエジプトから導き上って、この荒れ野で、死なせようとするのですか」、と呟いたのです。そうしますと、火の蛇が、この民を襲撃して、多くの民が命を落としました。イスラエルの民は、ようやく、自分たちが神に反抗した罪を悔い改めて、モーセに、執り成しを願ったのでした。モーセは、神の言葉に従って、青銅の蛇を作らせて、これを、竿の上に掛けましたところ、蛇に噛まれた者は、この青銅の蛇を仰ぎ見て、死を免れたのでした。

ここに、イエス様の救いの予型が現れています。イエス様は、なんと、人間が犯した罪の為に、ご自分の体を青銅の蛇とされて、十字架に架けられたのです。キリスト・イエスの十字架上の死は、人間の罪を赦す為でした。それは、信じる者が、皆、人の子によって、永遠の命を得る為でした。そして、この、キリストの十字架の赦しが、“最終的な人間の救い”となりました。




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