説教

2017年10月15日

新しい契約、聖餐式
大坪章美牧師


コリントの信徒への手紙一 11 章 23〜26 節



今から三千三百年ほども前のことです。主なる神様はモーセを再びエジプトに行かせて、奴隷にされているイスラエルの民を救うように命じました。神様は、モーセに不思議な力を与えて、幾つもの懲らしめを与えたのですが、エジプトの王は意地になって、イスラエルの民が逃げることを許しませんでした。神様は、遂に、最も厳しい方法を取られました。モーセに命令されました。「イスラエルの皆に告げなさい。今月10日、それぞれの家で、子羊を一匹用意しなさい。そして、14日の夕方に、その子羊を殺して、その血を、イスラエル人の家々玄関の柱と、鴨居に塗りなさい。その夜、わたしは、エジプトの国中を巡って、人でも家畜でも、一番最初に生まれた者を殺す。ただ子羊の血が塗られた家だけは過ぎ越す」と、言われたのです。

14日の晩、あちこちのエジプト人の家々から、叫び声が聞こえてきました。なんと、王の息子まで、死んでしまったのです。翌朝、王ラムセス二世は、モーセを呼び出して、逃げ出すことを許したのです。これが、イスラエルの民を救われた、「神の契約」でした。

教会学校では、今、“使徒信条”を教えて頂いていますね。使徒信条を祈って行きますと、「罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず」という言葉で終わります。どうして教会にやって来る人々の罪が赦されるのか、と言いますと、それは、イエス様が、十字架の上で、みんなの罪を、全てご自分の罪として引き受けて、死んで下さった、からです。そして、その苦しみが表れているのが、イエス様の右わき腹の、ローマの兵士が槍で突いた傷跡です。イエス様の肉が裂けています。また、その傷から赤い血潮が流れ出ています。

皆のお父さん、お母さん、それにおじいちゃん、おばあちゃんが、日曜日毎に教会に来られるのは、私達の罪の為に死んで下さったイエス様を通して、神様に感謝の礼拝を捧げる為なのです。そして感謝の礼拝とは、その中身は、“牧師の説教”と“洗礼式”と“聖餐式”です。聖餐式が行われますのは、「その場に、イエス様が共にいて下さる」からです。イエス様を遠くに見て、よく分からないまま拝むのではなくて、私達の体の中に、イエス様の“肉と血”とを取り込むのです。

最初に、使徒信条のお話をしましたが、その中で、「十字架に付けられ」という言葉がありました。「これは、とても大切な言葉です」と、お話しました。「何故、大切なのか」と申しますと、イエス様は、十字架に付けられる日の前の晩に、12人の弟子達に、大事なことを教えられたからです。そして、その“大事なこと”とは、“聖餐式の仕方”でした。そして、パウロは、その正しい聖餐の仕方を、コリントの教会の人々に手紙に書いて送ったのです。パウロの言葉によりますと、その時、イエス様は、「パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、『これは、あなた方の為の、わたしの体である。わたしの記念として、このように行いなさい』」と、言われました。次にイエス様が仰ったのは、「また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる、“新しい契約”である。飲む度に、わたしの記念として、このように行いなさい』と言われました」と書いてある通りです。イエス様が、最後の晩餐、すなわち、最初の聖餐式で示されたのは、「ご自分の、“十字架の上での死”の意味」でした。

イエス様は、「多くの人の為に流す、私の“新しい契約の血”である」と仰いました。“新しい契約”があるのなら、“古い契約”も、ある筈です。古い契約とは、「子羊や、動物の血を犠牲として流して、罪を赦され、救いを与えられている」という契約でした。でも、それは、イスラエルの民だけが救われる、という狭い範囲の救いの約束でした。しかし、イエス様が仰る“新しい契約”とは、「聖餐式で、イエス様の血であるぶどう酒を飲むことによって、わたしたちの全ての罪が赦される」という約束なのです。ここには、民族や人種の区別はありません。すべての人々が救われるのです。

私達は、イエス様の体であるパンを食べ、その血であるぶどう酒を飲む事によって、イエス様が私達の為に死んで下さった事を、いつまでも、思い出すのです。



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