説教

2017年10月1日

キリストの血による義
大坪章美牧師


ローマの信徒への手紙 5 章 1〜11 節



預言者第二イザヤは、捕囚時代の終わり頃に、自分自身もバビロンで捕囚の民として生活しながら、預言者として召され、イスラエルの民の、捕囚からの解放の時が近いことを告げ知らせて、彼らが故郷ユダへ帰国するように強く促しました。バビロンから帰国するには、年若い者も弱り疲れ、壮年の者でさえ、疲れ果てて倒れる程でした。捕囚の民の中には、バビロンでの生活に慣れきって、祖国ユダへ帰る事をためらう人々が居ましたが、イザヤは説得して、祖国へ向けて、歩き出させたのです。然し、出発してからは、旅の困難さから、イザヤは迫害を受けました。イザヤは知っているのです、「主なる神様が助けて下さる時は、どんなに大きな苦難の中であっても、恥じることは無く、うろたえたり、あわてふためくことは、無い」のです。

主なる神様が、イザヤと共に裁きの座に立って、裁かれる時には、「まず、自分が裁かれよう」と言って下さるのです。イザヤは、「見よ、主なる神が助けて下さる。だれがわたしを罪に定め得よう」と、言っています。預言者イザヤを訴え、苦しめる、バビロン残留を主張するイスラエルの同胞は、いずれ滅び、ユダへの帰国を先導するイザヤの歩みが、究極的に勝利を収めることが、預言されているのです。

時代はおよそ六百年ほども新しくなりますが、紀元58年頃の、コリントの教会での事です。パウロが、このコリントに滞在中の3か月の間に書き上げたのが、ローマの信徒への手紙でした。パウロは、「神は、アブラハムや、その子孫に、世界を受け継がせる事を約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による“義”に基づいてなされたのだ」と記しています。アブラハムは、主なる神様から、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていた通りに、多くの民の父となったのですが、その時、アブラハムは、およそ百歳の年齢に達していて、また、妻のサラの体も、子を宿せない、と知りながらも、その信仰は、弱る事は無かったのです。これが、「アブラハムの“義”」と、認められたのです。5:1節のパウロの言葉、「このように、わたし達は、信仰によって“義”とされたのだから」という言葉は、このような背景を持っています。

パウロは、更に、“神の愛”について語ります。6節です、「実に、キリストは、わたしたちが未だ弱かった頃、定められた時に、不信心な者のために死んで下さった」と記しています。その、“神の愛”が、今、わたしたちに示されているのです。“神の愛”を証明するのが、「イエス・キリストの死」です。イエス・キリストの死が、なぜ、「神の愛」と言えるのか、と申しますと、“イエス様の、十字架上の贖いの血”によって、わたしたちを“義なる者”と、して下さったからです。

わたし達も、いずれの日か、最後の審判の座の前に、立たなければなりません。然し、その場合でも、わたしたちは、神様から愛され、信仰によって、“義”とされているのです。ましてや、その場合、神の怒りと私たちとの間には、イエス・キリストが立って下さって、わたしたちを、神の怒りから覆って下さるのです。

5章10節も、同じ意味です。かつて、神に逆らい、神もまた、御怒りの対象とされた私達が、今や、御子イエス・キリストの贖いの死によって義とされ、和解させて頂いたのであれば、仲保者として立っておられるイエス・キリストが、私達を最後の審判の時にも救って下さり、永遠の命に生かされない筈はないのです。

それだけではありません。パウロは言っています、11節です、「わたしたちの主、イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています」と記しております。そして、その理由は、はっきりしています。終末の、“救いの望み”だけではありません。わたしたちは今、現在、神との“和解”に入れられているのです。それが、神様と人間との交わりであり、「祈りと礼拝」に現れています。わたしたちは今、主なる神様を、「わたしたちの父よ」と、讃え、誇りとしています。

ここにこそ、かつて、イザヤが語った言葉、「見よ、主なる神が助けて下さる。誰がわたしを罪に定め得よう」という預言の成就があるのです。



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