説教

2017年9月24日

神の義
大坪章美牧師


ローマの信徒への手紙 14 章 1〜8 節



預言者アモスは、アモス書3章6節bで、「町に災いが起こったなら、それは、主がなされたことではないか」と、語りました。神と、神の言葉とは、人々が拒み得ない必然性を持っています。それは、審きとして起きて来るのです。神のみが、全ての考えと、行いの唯一の出発点なのです。ですから、アモスは、神の言葉を語らずにはいられないのです。神様は、個々人の都合にも、権力者の気分にも、何者にも左右されることはありません。ただ、“神の義”を貫かれるのです。

時代は変わりまして、紀元58年頃の、コリントの教会です。パウロは、第3回伝道旅行の終わりに、コリントの教会へ、3か月ほど、滞在していました。パウロは、エルサレム教会に献金を渡し終えた後は、イスパニア、今のスペインへ行って、新たな伝道活動を始めようと、考えたのです。そして、その訪問に先立って、まず、ローマの教会へ手紙を書くことを思い立って、手紙を、この3か月の間に、書いたのでした。これが、ローマの信徒への手紙です。

ローマの教会の信徒達は、パウロが未だ会った事もない人々でしたが、パウロは、14章から、教会内の人間関係について記しています。パウロが入手していた情報からは、当時、ローマの教会では明らかに、少数派の人々が肉食を拒否して、また、ぶどう酒も、「汚れたもの」として口にせず、また、特定の日を、宗教上の理由から、禁欲の日とする習慣を持っていました。

パウロは、1節で、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と言っています。「互いに認め合い、受け入れ合う」ことで、解決すべきである、と言っているのです。

次に、4節では、「野菜しか食べない弱い人達」に対して、パウロは忠告しています。「“他人の召使い”を裁くとは、一体あなた方は、何者ですか」と非難しています。“他人の召使い”と、パウロが言っていますのは、“自由なキリスト者”の事です。その“自由なキリスト者”には、主人が居るから召使いと言っています。そして、その“主人”とはイエス・キリストの事です。

パウロは、次に、「特定の日を重んじるかどうか」の問題についても記しています。パウロは、これに対しても、「どちらが正しい」、という判断は下しません。ただ、「各自が、自分の心の確信に基づいて、決めるべきことです」と、教えています。“主の信仰”は、個人の判断や、個人の確信によって、破られるようなものではありません。ですから、パウロは、決して、個人の自由意思に任せっきりの状態には置きません。厳然とした規範を示しています。それが6節です。

それは、禁欲の立場の人も、自由の立場の人も、同じ様に、「主の為に行動している」という事です。自らの信念や確信に基づいて行っている事は、それを通して、主キリストを仰ぎ見て、主に感謝の祈りを捧げているのです。取っている行動は違っていても、共に主に結ばれているのです。これこそが共同体の命綱です。

私達が生きる全ての瞬間も、そして、私達が死ぬ時も、ただ、「主の為」に他ならないのです。一般に、「人の死」は、恐ろしい自然の運命のように、世の人は見ていますが、キリスト者の死は、そうではありません。キリスト者の死は、「主に対する、命の捧げもの」であって、「主の栄光を現わしつつ、主と共に生きる、祝福に入る門」即ち、「門出」なのです。イエス様が“死んで、復活された”のは、私達全ての人間、死んだ者と生きている者との、主となられる為でした。そして、人間の現在と将来、永遠に亘って、主となられる為でした。“死”にあっても、“生”にあっても、私達の主であるのであれば、私達の、“生き死に”は、さほど大きな問題ではありません。・・ましてや、「肉を食べるか、食べないか」、「日を選り好み、するかしないか」などは、たいした問題ではないことが分かります。

ここに、私達は、アモスが語った、預言を思い起こします。「町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか」 主のみ旨は、人間の思いに関わらず、“神の義”を貫かれます。わたしたちは、唯一つ、“主を仰ぎ見て、感謝のうちに過ごせば良い”のです。





前のページへ戻る