説教

2017年9月3日

イエス様の2度目の洗礼
大坪章美牧師


ルカによる福音書 12 章 41〜50 節



イザヤ63:12節以降には、かつて、イスラエルを救って下さった主なる神様への回想、なつかしさが綴られています。イスラエルの民は、かつて、イスラエルの民を憩わせて下さった主の霊に、祈り願うのです。15節です。「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から、ご覧下さい」と、祈り願って、続いて、「どこにあるのですか、あなたの熱情と、力強い御業は」と、訴えています。主なる神様は、第二の出エジプトである、“バビロン捕囚”からの解放においても、イスラエルの民を救い出して下さるし、また、第三の出エジプトである、“罪からの救い”にあたっても、大いなる御業をもって、導いて下さるのです。

そして、この第3イザヤの預言が語られた頃から、550年程も後の事、イエス様と弟子達がガリラヤを出てエルサレムへ向かって旅をされていた時の事です。

イエス様は、ルカ福音書12:39節以下で、「盗人の侵入に備える家主」の譬え話をされました。「この事を弁えていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家には、押し入らせはしないだろう」と話されました。そして、この譬え話で、「イエス様の弟子達も、常時、再臨の主を、待っていなければならない」という教訓を与えられるのでした。

47節以下の譬え話は、主人に“忠実でなかった管理人”の中でも、また、二通りの扱いがあることを、教えています。まず、ひとつめの事例が、47節です。「主人の思いを知りながら何も準備せず、或いは、主人の思い通りにしなかった管理人は、ひどく鞭打たれる」と言われました。律法学者やファリサイ派の人々は、イエス様を通してではなく、主なる神様から直接委任を受けた人々だからです。

そして、また、ふたつめの事例が、48節です。「しかし、知らずにいて、鞭打たれるようなことをした者は、打たれても、少しで済む」と、言われています。「“主人の思いを知らなかった管理人への罰”は、軽くて済む」と、仰っています。この、お言葉を、誤って読み取る人は多いのです。もともと、「主人の思いを知らない人」は、恵みも少なく、祝福も少ないのです。このような人々が、主の思い通りの義務を果たさないからと言って、罰を受けるにも軽く済むのは、もともと、恵みからほど遠い人たちだからなのです。

49節で語られていますのも、イエス様が来られたのは、決して、地上に、表面的な平和をもたらす為ではなく、それは、危機であり、決断であった事が述べられています。イエス様は、「わたしが来たのは、地上に、火を投ずる為である。その火が既に燃えていたら、と、どんなに願っていることか」と、述べられました。

この、イエス様の決断は、イエス様が審判者であることを、示しています。イエス様は、この世の罪を焼き尽くすための審判者として、地上においでになったのでした。地上においでになったイエス様は宣言されました。50節です、「しかし、わたしには、受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに、苦しむことだろう」と、言われました。イエス様は、「この地上に、火を投ずるために来たのだ」と、言われましたが、そのイエス様が投じる審きの火によって焼かれるのは、他ならぬ、“イエス様、ご自身なのだ”と仰っているのです。これが、すなわち、“人間の罪を贖う、十字架のご受難”です。そして、そのことが、イエス様が仰っている、「わたしには、受けねばならないバプテスマがある」というお言葉の、“バプテスマ、すなわち洗礼”なのです。「それが終わるまで」とは、言い換えますと、「それを成し遂げるまでは」という意味です。逆に申しますと、「わたしがそれを成し遂げることによって、もはや、他の誰も、そのバプテスマを受ける必要は、無くなる」と、言われているのです。イエス様の十字架は、わたしの身代わりでした。

このイエス様の行いこそ、イザヤが63:15節で語った預言、「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮からご覧ください。どこにあるのですか。あなたの熱情と、力強い御業は」という言葉の成就でした。ここに、神の熱情と、力強い御業があったのです。



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