説教

2017年7月23日

主は豊かに恵まれる
大坪章美牧師


ローマの信徒への手紙 10 章 1〜13節



ヨブ記38:1節です、「主は嵐の中から、ヨブに答えて仰せになった」と始められています。また31節からは、「すばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩める事がお前にできるか」と語られました。41節では、「誰が烏の為に餌を置いてやるのか」と問われました。「神が、これらの動物の為に食べ物を用意するのだ」と言われています。神様はヨブに、「お前が、これに関与する事が出来るか?」と問いかけておられるのです。

ここまで、神様が語って来られたのは、ヨブに対しての、「お前は、神に等しい者なのか」という問いであって、神様の無限の思いが含まれています。しかし、そこには、ヨブが受けている苦難への説明はありません。それは、何故、なのでしょうか?・・・それは、一つには、“人間の苦しみには、神が説明されないものがある”ことを、私達が学ぶためなのです。二つ目には、ヨブの問題に対する、“神の顧み”が示されているからです。説明は無くても、神様が見て、聞いて、心を配っておられることは、明らかにされているのです。そして、三つ目の理由が、「神様の目的は、神からの説明が無くても、ヨブが神ご自身を信頼するように、ヨブを育てること」にありました。わたしたちキリスト者の生涯には、不可解な謎が起きてきます。信仰とは、どのような矛盾の中でも、また、説明が無く、理由が無くても、神ご自身を、信じていくことです。

新約の時代になってからも、神様の“豊かな恵み”について、使徒パウロが語っています。ローマの信徒への手紙です。パウロは、10:1節で、「兄弟たち、わたしは、彼らが救われることを心から願い、彼らの為に、神に祈っています」と、記しています。パウロは、心底、自分の同胞である、イスラエルの民の救いを求めているのですが、「イスラエルの民の不信仰」を知っていながら、その救いを願っている、というところに、パウロの悲しみというものが、感じられます。

10:5節は、レビ記18:5節の、引用です。そこには、主が、モーセに告げられた言葉、「わたしの掟と法とを、守りなさい。これを行う人は、それによって、命を得ることができる。わたしは主である」と記されています。これは、律法による“義”です。しかし、パウロは、直ぐその後で、「信仰による義」について、述べています。救い主である、主イエス・キリストが、地上に来てくださった以上、律法は終わったのです。パウロは、申命記30:14節を引用しています。「み言葉は、あなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と、記されています。確かに、イエス様は、既に天から降って地上に来られ、また、死人の中から復活されたのです。今や、遠いかなたに居られる方ではないのです。

パウロが語っている10節には、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して、救われるのです」という言葉がそれを表しています。申命記30:14節の、モーセが言おうとしている意味は、「あなたは、あくせく、自分で骨を折る必要は無い。救いのみ言葉は厳然としてそこにあるのだから。あなたは心から信じて、そのみ言葉により頼みさえすれば良い。それで、救いはあなたのものだ。神が一切を備えて下さっているから、人間は、唯、受けさえすれば良いのだし、受ける以外には何もなしえないのだから」と、言っているのです。律法主義が主張するように、『行いがあって、救われる』のではなくて、まず、『信じること』、そして、「心に信じた事を口に言い表す事」が大切なのです。

信仰と救いとは、一体のものです。イエス様を信じる者は、裁きの時にも恥を蒙ることはありません。「救いとなるだけ」なのです。そして12節、ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、或いは異邦人であれ、全ての人に、同じ主がおられて、「ご自分を呼び求める全ての人を豊かにお恵みになる」のです。然も、その祈り求める人全てに、無尽蔵の恵みを、惜しむ事なく施されるのです。それは、あたかも、主なる神様が、義人ヨブに語られた言葉、「誰が烏の為に、餌を置いてやるのか。その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出る時」。その時、餌を置かれるのは同じ主なのです。



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