説教

2017年7月16日

主の傷によっていやされる
大坪章美牧師


ペトロの手紙一 2章18〜25節






モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野における新しい生活が始まります。出エジプト記15:22です。「モーセは、イスラエルの民を、葦の海から旅立たせ、シュルの荒れ野に向かって、3日間、水を得なかった」と、記されています。そして、トフカに至る手前にある、マラという集落に着きました。マラというヘブル語を辞書で引きますと、「シナイ半島における、苦い泉」という意味が載っていまして、もともとは、「苦さ」という意味の言葉です。そこで、民達はモーセに不平を言いました。「私達は何を飲んだらよいのですか」と呟きました。この呟きはモーセに向けられました。神様が指名されたモーセに対する不平不満は、主なる神様に対する不満でもありました。そしてそれは、主なる神様のご慈愛に対する、理解の無さから来るものでした。たまりかねたモーセは、主なる神様に叫びました。そうしますと、「主は、モーセに一本の木を示されましたので、それを水に投げ込むと、水は甘くなった」と、記されています。

25節b以下には、「その所で、主は彼に掟と法を与えられ、又その所で彼を試みて言われた」と、あります。「もし、あなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目に適う正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、全ての掟を守るならば、私がエジプト人に下した病を、あなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」と、言われました。いわば、条件付きの救いでした。神の祝福は、神の子達が、示された神の御旨に服従するか、否か、にかかっているのです。主の戒めを守るのであれば、病気から守られるのです。

ただ、私達に為すべきことがあるとすれば、それは、ただ一つ、「主の愛を疑わないで信じること」です。

モーセに率いられたイスラエルの民が、「主の戒めを守るならば、病気をいやされる」と宣言されましたように、新約の時代になってから、使徒ペトロも、「耐え忍ぶならば、キリスト・イエスが受けられたみ傷によって、癒される」と、語っています。

“イエス・キリストを信じる者”は、欲望の支配からは自由にされてはいますが、しかし、絶えず、その攻撃を受けていることを、知らなければなりません。この攻撃に屈服してしまう、ということは、折角、主なる神様が、キリスト者の本質を造り変えて、“高い所”においてくださっているのに、そこから、“墜落”することになってしまいます。この、ペトロの手紙の読者は、既に“聖霊”を受けているのですから、それぞれに押し寄せる、肉体的な衝動を、完全に打ち負かすよう、ペトロは期待しているのです。

17節迄は、キリスト者の義務として、「キリストの頸木を負って、キリストを自らの魂の主、自分の人生の主として受け入れる時にこそ、私達は、“真の自由を得ることが出来る”」という事が記されておりました。従いまして、“真の自由人”は、“神の奴隷”である、とは申しましても、それは、“心の持ち方”なのであって、日常の生活において、“奴隷の身分になる”ということではありませんでした。そして、ペトロの言葉は、核心に迫ります。「そしてイエス様は、十字架にかかられて、自らその身にわたしたちの罪を担って下さいました。それは、わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」と、記しています。

イエス様を死に至らしめたのは、イエス様ご自身の罪ではありませんでした。そうではなく、イエス様は、身代わりになって、死なれたのです。私達人類の罪を、ご自分の身に引き受けて下さり、それを残らず背負ってくださり、十字架の上まで、担って行かれたのでした。そして、わたしたち人間の罪もろとも、ご自分の命を捧げられたことによって、いかなる人間にも成し遂げられない、人間の罪の贖いを、完成されたのです。

著者ペトロは記しています、24節です。「その、お受けになった傷によって、あなた方は癒されました」と、言っています。私達は、イエス様の死と引き換えに、その傷によって、癒されました。それは、主なる神様がモーセに言われた言葉、「わたしは、あなたを癒す主である」と言う、主の約束の成就でもありました。 








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