説教

2017年5月28日

 わたしが担い、背負い、救い出す
三枝禮三牧師


ヨハネによる福音書 19章17-22節





標題に掲げたのは、ヤハウェ、主なる神の言葉です。原典では、「わたし」(アニー)という語が、各動詞の前に、ダメダシするかのように繰り返されています。4節だけで、アニー「わたしが」という語が、5回も繰り返されてるわけです。これは、念には念を押した強調でしょう。あなた自身ではなく、数多の偶像でもなく、「このわたしこそが!そうする。」ということでしょう。

出エジプト記19章は、奴隷にされていたエジプトの王国から脱出したイスラエルの民が、三月目にシナイ山の麓に着きます。独り山頂に登ったモーセがイスラエルの民に賜わった神の言葉を、降りて来て告げる場面です。その冒頭の4節はこうです。「あなたたちは見た。/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて連れてきたことを。」更に、その続きがこう語り継がれています。「また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は、父が子を背負うように、あなたを背負ってくれたのを見た」(申命記1:31)。

エジプトからシナイの荒れ野までの間には、エジプトの軍隊に追われながら渡った紅海があった。飢えのためエジプトの肉鍋を求めて不平を募らせた。渇きのため岩を打って水を飲ませろと、モーセを責めた。まがまがしい広大な砂漠があった。にも拘わらず、幾多の危機を乗り越えて、神の山シナイに到達することができた。これは、奇跡でしかありません。しかし、それは、「わたしが、あなたたちを、鷲の翼に乗せて連れて来たからだ」と、主は告げておられます。決して、忘れられない言葉だったに違いありません。

第二イザヤ、46章4節の主の言葉は、その言葉の、想起と再現でしょう。「わたしが、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしが担い、わたしが背負い、わたしが救い出す」と告げておられるのであります。そうまで、念には念を押すように約束されている民としては、どうしてもなお、不信を以て遠慮してよいでしょう。

(ヨハネ1:17〜22)
17節に、「イエスは、自ら十字架を背負い」とあります。「自ら」です。主イエスも、その行動で、「わたしが、自ら、あなたたちの十字架を担い、わたしが自らあなたがたを背負い、わたしが自ら、あなたがたを救い出す」そう言っておられるのであります。

主イエスは、メシヤなるキリストを意味する「ユダヤ人の王」として、天下万民に代わって十字架を背負い、罪の赦しと自由を与えて下さったのです。その身軽にされた自由を用いて、イエスの十字架を身代わりした男がいました。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書のどれにも報告されています。マタイには、シモンという名のキレネ人だとあります。マルコは、アレキサンドロとルフォスの父で、シモンというキレネ人で、田舎から出て来て、通りかかったところだったと、丁寧に報告しています。しかも、マルコがひさしく付き添っていた使徒パウロは、ローマの信徒への手紙16章13節に、「主に結ばれている、選ばれている者、ルフォスおよびその母によろしく。彼女はわたしにとっても、母なのです」と、書いています。シモンがイエスの十字架を、肩代わりさせられた報告によって、その一族が、いつのまにか、キリスト者の群れに加わっていた訳でしょう。

シモンは、主イエスによって、自分自身の罪の重荷を肩代わりされ、身軽にされたその自由を以て、物理的な重荷としての、縦木か横木を肩代わりして、主イエスの後に従っただけです。しかし、そのことが、シモンの一族に救いの恵みをもたらすことになったのであります。

主イエス・キリストによって、罪も苦しみも一切を担われ、背負われて、身軽にされている自由を以て、シモンのように、主イエスに倣って、隣人の重荷を、いくらかでも分け持って一緒に行くなら、あなたの一族に、救いの恵みがいよいよ増し加わることになるでしょう。





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