説教

2017年2月26日

見えない事実を確認する
大坪章美牧師


ヘブライ人への手紙 10章32〜11章3節






出エジプト記33:18節です。モーセは、主なる神様の好意を受けながら、驚くべき事に、更に、本音を、即ち、“自分が最も望んでいる事”を神様に打ち明けました。「どうか、あなたの栄光をお示しください」と、祈りました。“栄光”と訳されたヘブル語は、“カーボード”です。辞書を引きますと、「重い」、「重さ」という意味が載っています。「神の栄光」とは、「永遠の重みのある事がら」、即ち、「神の世界」の事です。モーセの祈りは、「神様の本質を、あるがままに見せて下さい」という祈りで、叶えられる筈もない、要求でした。

そして、主なる神様は、モーセに言われました、「あなたは、わたしの顔を見ることはできない。人は、わたしを見てなお、生きていることは出来ないからである」と、仰いました。神様の栄光の御顔を見ることは、モーセにすら、許されませんでした。死ぬべき人間は、神を見ることは出来ません。人間が見ることのできるのは、“神様が通り過ぎた後だけ”、主なる神様の過去の行動によってのみ、神を知ることが出来るのです。

このモーセの時代から三千年以上もの時が経って、紀元80年〜90年の頃、ヘブライ人への手紙の著者は、迫害の危機に見舞われていたと思われる教会の信徒の群れ宛てに手紙を送りました。その信徒の群れは、迫害によって、イエス・キリストに対する信仰を投げ捨ててしまおうと考える程の危機に直面していました。

著者は、教会の人たちへ警告を発しています。3:12節では、「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰の無い悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者が無いように、注意しなさい」と、記しています。

洗礼を受けた頃、勇敢で信仰深く、道を踏み外さなかった彼らが、今になって信仰の道から離れようとしている気配を著者は見て取ったのです。人は逆境にある時よりは、順風万般の時ほど、倒れ易いのです。人は苦難によって鍛えられ、安楽によって滅ぼされます。

ヘブライ人への手紙の著者は、続けて言います、「戦いによく耐えた初めの頃を、思い出して下さい。嘲られ、苦しめられて、見世物にされた事もあった」と述べていますのは、紀元64年頃、ローマ皇帝ネロの宮殿の庭園で、実際に起きた市内の大火災の責任を取らされて、キリスト教徒が処刑された事を語っています。
読者達は、何故このような迫害に耐えきれたかと申しますと、「迫害とは比べ物にならない、素晴らしい、いつ迄も残るものを与えられている」と知っていたからです。信じて召された者は「永遠」に入る事を確信していますから迫害を恐れる事はありませんでした。

著者は、改めて、読者たちに勧めます。35節です、「だから、“自分の確信”を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります」と、言っています。

そして、その報いを受ける為の条件を、著者は語ります。「神の御心を行って、約束されたものを受ける為には、忍耐が必要なのです」と、記しています。この“忍耐”は、後ろ向きの、強いられて行うものではなく、「大きな報いを受けるため」の希望に裏付けられた、積極的なものですから、難しいことではありません。

わたしたちは、「神の愛」によって、命を与えられています。しかも、その命は、“永遠の命”です。わたしたちは、この事実を、“目で見た”訳ではありません。“体で感じた”訳でもありません。しかし、目にも見ず、体にも感じませんが、ただ「信仰によって、命を確保する者である」ことは、事実です。

それでは、その“信仰”とは、何でしょうか。著者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と言っています。この信仰があれば、現時点で、疑い、迷いの中にある読者たちも、「見えない事実を確認すること」が、出来るはずです。

11章3節では、「信仰によって、わたし達は、この世界が、神の言葉によって創造され、従って、見えるものは、目にみえているものからできたものではないことが分かるのです」と、言っています。神の言が、この世界を創造したことを、わたし達は知っています。

わたし達も、神の国を見た訳ではありませんが、目には見えない神様のお働きを、信じて、疑わないのです。










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