説教

2016年12月11日

神の慈愛による悔い改め
大坪章美牧師


ローマの信徒への手紙 2章1-6節





新約の時代になって、パウロがローマの信徒へ宛てて書いた手紙の中にも、「神の、正しい裁き」について述べられた箇所があります。1:28節以下に、「彼らは、神を認めようとしなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、その為、彼らは、してはならないことをするようになりました」と、記されています。

神様は、「不義なる人間」、即ち、「神を知ることを良しとしない人」を、そのままには、しておかれません。主なる神様は、この、“不義なる者たち”を、どうされるか、と申しますと、「罪に渡される」のです。その結果、彼ら、「不義なる者」は、意識してか、無意識のうちにか、「してはならないこと」をしてしまうのです。

人間が利己主義と虚栄の中にあって、神の権威を認めないで、信仰を持たず、神に従う事をしない時、その人間本人は、「私は自由を満喫している」と喜んでいるように見えて、実際は“自由”どころか、「罪と律法と死」という最も危険な状態に放置されているのです。

神を認めず、人との交わりを破壊し、社会を混乱させる、この様な人々は、この様な生き方が、当然、「死に値する」という“神の定め”を知ってい乍ら、それが放置されているように見えるのは、神様に力が無いのではなくて、“神の怒り”の下にあるからなのです。

2:1節で、パウロは、「だから、全て、人を裁く者よ。弁解の余地は無い。あなたは、他人を裁きながら、実は、自分自身を、罪に定めている」と、鋭く追及しました。今、パウロが追求している「他人を裁く者」とは、異邦人のことではなく、ユダヤ人のことです。

「だから」という言葉は、「神様を認めようとしない“異邦人たち”が陥る、魂の滅び」を目の前に見ながら、この、“恐ろしい状況”を、一瞬たりとも、「自分たちユダヤ人も、同じ罪を宣告されている」とは考えようとしない、ユダヤ人に向けられているのです。

何故ユダヤ人達だけが、そのような見方に立つ事ができるのか、と申しますと、ユダヤ人達は「アブラハムの時代から、自分達は救いの契約の下にあって、特別の民である。神は異邦人にとっては厳しい裁き主であるが、ユダヤ人にとっては、変わる事の無い、特別の保護者である」と信じて疑わなかった事にあります。

しかし、このようなユダヤ人に対して、パウロは、冷や水をかけるようなことを言いました。「すべて、人を裁く者よ。弁解の余地はない。あなたは他人を裁きながら、実は、自分を罪に定めている」と、断言するのです。これは、ユダヤ人キリスト者が、異邦人たちを裁くときに、「自分たちだけは神の側に立っていると思い込んでいて、“自分たちだけは、神の怒りから安全なのだ”」と思い込んで、大変な錯覚に陥っていることを指摘しています。「決して、あなたたちは、神の裁きを逃れられない」と、断言しているのです。

そこで、パウロは、助け舟を出します。「真の神の救い」を、彼らに示します。「或いは、“神の憐みが、あなたを悔い改めに導く”事も知らないで、その豊かな、“慈愛と、寛容と、忍耐”とを軽んじるのですか」と、呼びかけています。神の“ご慈愛”だけが、ユダヤ人キリスト者を“悔い改め”に導かれると言っています。

パウロが主張する、“神のご慈愛による悔い改め”こそ、時代を超えて、信じる者に働く、「神様の“忍耐強い罪の赦し”即ち、“大きな憐れみ”」に外なりません。そして、この、「神の憐みによる悔い改め」が、人間に、絶えず、悔い改めの機会を与えて下さっていたのです。“悔い改め”は、“心の入れ替え”です。一人の人間全体の方向転換であって、「神に帰ること」を意味します。

このように、神様が示して下さる“ご慈愛”を軽んじる者に、パウロは言っています。5節です、「あなたは頑なで、心を改めようとはせず、神の怒りを自分のために蓄えています」と、指摘しています。「悔い改めの無い心」とは、「生まれつきの自分に閉じ籠って、神のご慈愛を拒む事」です。パウロは言っています、「このような、神の憐みを拒絶する者は、神の怒りを、自分の為に蓄えています」、と記されています。私達は、神様の憐みを素直に頂いて、日々悔い改め、神のご慈愛のうちに生かされる者でありたいと、願っています。






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