説教

2016年11月27日

 一歩信仰が足りない
大庭康男


マタイによる福音書 8章23〜27節







主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖の向こう岸に行こうとして、舟に乗りました。その時の様子はこのようです。イエス様が先に船に乗り込まれると、弟子たちも従って船に入った。

この様子はマルコによる福音書と比べますと違っています。マルコ(マルコ4:36)では、弟子たちは群衆を後に残し、イエス様を船に乗せたまま漕ぎ出した、と書かれています。

マタイでは、主イエスに従ったという弟子たちの行動だけが、簡素に書かれています。この表現は、単に彼らの行動を書いたのではなく、特にマタイは、マルコの資料を書き改めて、そのように書いたのです。そこには「主イエスに従う」と言うことを主眼として弟子たちを現そうとするためでありました。「従う」の言葉は、飾り言葉もない、単刀直入の言葉であり、誠実と真実の上に成り立つ言葉です。そして、どのキリスト者にも、あてはまる言葉です。

教会は、主イエスに従うキリスト者の群れであります。その群れの交わりの中に求道者や、来て間もない方たちも一緒にいます。これが、まさに、イエス・キリストの舟なのです。ところが、舟は、波や風に遭遇して、心悩ますことが生じるのです。

主イエスたちの舟は、突然の激しい嵐と、大波に襲われ、波にのまれそうになります。船底の板一枚の下は、水深深く、死の世界です。弟子たちの中には漁師であった人もいたでしょう。彼らは自然の猛威と戦っているのですが、次第に、手に負えなくなって、沈没・死の恐怖を彼らは覚え始めました。
その時は、主イエスは、安心して眠っていました。

主イエスは、弟子たちに、櫓を漕ぐことも、かじ取りも、舟のすべてを弟子たちに任せていました。そして船尾の方で、寝ています。恐怖を覚えた弟子たちは、主イエスに近寄って、痛切な思いで「主よ」と呼びかけ、「助けてください」と祈るようにして言う。

この呼びかけに、主イエスは起き上がりました。弟子たちの訴えを聞かれた主イエスは、まだ、舟が、左右に大きく揺れる中でありましたが、まず弟子たちを励まします。「どうして怖がっているのか、大丈夫だ。怖がらなくてもよい」と言う励ましの声を掛けます。

弟子たちを落ち着かせた、その後で、嵐を静めました。

主イエスが「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」、と弟子たちに言われました。信じて従っていた弟子たちの敗北の姿を見ます。ここに、弟子たちの信仰を主イエスはご覧になったのです。
それは、主イエスが、彼らと共に舟に乗っておられるからには、主イエスが必ず助けてくださる。その力を信じ期待する。それが信仰であります。それなのに、側にいる主イエスが必ず助けてくださる、と言うことに、彼らは挫折していたのです。

弟子達は、主イエスに対する信仰がないのではなく、あるのです。然し、主イエスに従いながらも尚一歩の信仰の足りないところを、主イエスは見抜いて励まされているのです。それは、生きて働く主イエスの力の介入を信じ期待することです。この事は私たちも同じではないのか、私たちの信仰の弱点ではないだろうか。

信仰は日常的なことに関わっています。そして、生きて働く主イエスだからこそ、身近な処に主イエスの力の介入を信じ期待するのであります。この事は大事なことであります。悩みの大きいことだけを主イエスは聞き入れて下さることではありません。身近なことを主イエスに語り掛けることが大事なことであります。

弟子たちが、神に対してあまりにもわずかしか信頼を寄せていない。主イエスが力をもって私たちに向き合っている方であることも知らない、そのような状態であることを強調して、弟子たちを人々(27節)と言われているのです。

主イエスに従う弟子たちの群れの教会は、いつどんな時でも、困難や苦しみに遭遇するでしょう。

その時、キリスト者は、信仰がないのではありません。一歩進んだ信仰で、主イエスの力の介入を信じ期待するようにと告げているのです。






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