説教

2016年11月6日

砕けた心で委ねる
大坪章美


コリント一12章1-11節





イザヤ書6:1節は、イザヤが初めて主なる神ヤハウェに、預言者として選ばれ、立てられた時の事が記されています。イザヤは、「主ご自身を見た」のではありません。“主なる神ヤハウェの衣の裾飾りと、セラフィム”を見たのでした。「主が座しておられるのを見た」と、ありますが、厳密に申しますと、「見たものの中に、主のご臨在を感じ取ったに過ぎなかった」のです。

そして、神殿は煙に満たされました。煙が雲のように神殿の内部を覆って、イザヤの目から、主なる神様のお姿を覆い隠したのです。この闇に向かって、イザヤは叫びました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」と言ったのです。すると、セラフィムの一人が、イザヤの罪を取り除こうとして飛び降りて来ました。そのセラフィムは、炭火を、イザヤの口に触れさせて言ったのです。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と記されています。

人間が赦される為には、人間の努力や、行いが、必要な条件ではありません。罪の意識があり、それを告白する事によって、主なる神様に仕えているセラフィムがイザヤの唇を清めて、救いをもたらしたのでした。

その時、イザヤは、主なる神様の声を聞いたのです。主は言われました、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。そこで、イザヤは答えました。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言ったのです。イザヤが、「砕けた心であったからこそ」自分を召して下さる神様にお委ねする事が出来たのです。“砕かれた心”は、大きな力を発揮します。

イザヤが神の召命を受けた時から、七百年も経ったころです。パウロは、紀元53年に、エーゲ海に面したアジア州第一の都市であったエフェソに、3年ほども滞在して、福音伝道に励みました。その頃のことです、コリントの教会の中に、「派閥争いが生じていること」や、「不道徳の問題が起きていること」などが、直接、コリントの信徒からの使いの者によって知らされました。パウロは、その解決のために、厳しい手紙を書かざるを得なくなりました。その手紙が、今日お読み頂いた、コリントの信徒への手紙一です。

そして、12:1節から、“霊的な賜物”について、記しています。パウロが、ここで、“霊的な賜物”について語り出したのには理由がありました。それは、その頃、コリントの教会の中に、「どのようにして、“霊の賜物”を見分ければよいのか」という議論があって、パウロに予め質問していたものと、考えられます。

パウロはまず、「“聖霊”が、すべてのキリスト教信仰告白の顕現を与える」と、教えています。その頃、コリントの教会の信徒のほとんどは、ギリシャ人、マケドニア人、ローマ人など、ユダヤ人以外の、異邦人たちでした。ですから、パウロは、彼らが洗礼を授けられる前のことを、思い出すように促したのです。

パウロがこのように、「聖霊によらなければ、誰も、『イエスは主である』とは言えない」と、信じていた事は、重要です。私達は、心に留めなければなりません。「イエスは主である」、と言えるとすれば、人間が自分の力で考えて、言えることではなくて、神様が、その人を愛されるが故に、示して下さる言葉なのです。

4節以下は、教会の霊的な賜物を理解する為に語られています。パウロは、「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは、同じ霊です」と記しています。“同じ霊”とは、わたし達、イエス・キリストを信じる者たちに、「イエスは主である」と言わしめて、信仰告白をさせて下さる、唯一の霊、「神の霊」なのです。

私達は、先に、預言者イザヤが、神の召命を受けた時の様子を学びました。イザヤは、自分の事を、「汚れた唇の者」と、告白して、躊躇しましたが、セラフィムの一人が祭壇の炭火をイザヤの口に触れさせたので、すべてを神に委ね、受け入れたのでした。教会の皆様は、もう、既に、“祭壇の炭火”と同じように、“洗礼”によって、清められています。主が、わたしたちそれぞれに与えて下さる賜物を、喜んで受け入れて、共に、全体のために働くものでありたいと、願っています。





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