説教

2016年9月18日

救いの約束は、希望によって
大坪章美


ヘブライ人への手紙 6章 9-19節





創世記15:1節には、アブラムに臨んだ主の言葉が記されています。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と言われました。アブラムは12:2節で、「わたしはあなたを、大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。」と、告げられていたのですが、現実としては、アブラムがハランを出発した時、既に75歳になっていました。アブラムの不安と恐れは、自らの年齢から考えても、「わたしはあなたを、大いなる国民にする」とか、「あなたの子孫に、この土地を与える」とかのお言葉が、本当に実現するのであろうか、という心配にありました。そして、神様が続いて言われた、「あなたの受ける報いは、非常に大きいであろう」というお言葉の中の、“報い”とは、“賃金”や“報酬”のような、何らかの“努力に対する対価”という意味ではなくて、“贈り物”を意味しています。

茲では、「神を信頼する事」が、約束成就の条件ではありません。もし、そうであれば、約束の成就は、“報償”や“代価”と同じ物、即ち、取引になってしまいます。そうではなく、「希望を持つ者だけが、贈り物を与えられる」のです。神の恩寵は、“希望を持つ者”だけが与えられる“神の贈り物”なのです。神様は言われました。「あなたの子孫は、このようになる」、即ち、アブラムには、長男が生まれ、その子孫は、天に輝く、星の数程になるであろう、と仰ったのです。6節には、「アブラムは、主を信じた」と、記されています。

時代は変わって、新約の時代です。紀元80年から90年代にかけて、現在は、ヘブライ人への手紙と名付けられた文書が書かれました。そして著者は、6:9節で、読者達に対して、前向きな事を提案します。「あなた方について、もっと良いこと、“救いに関わること”があると、確信しています」と、述べています。

この提案は、読者達が「祝福」を受けることですが、その、“神の祝福”の根拠を、“読者たちの忍耐”に置くのではなくて、“神の義”に、置いているのです。教会の群れに加わった人たちは、兄弟姉妹を愛することによって、“死”から“生”に移されました。「互いに、愛し合う」という責任を受け入れたのです。信仰と希望が疲れ切っていても、兄弟姉妹の間での、“愛の熱心”を、神様はお捨てになることはない、と言っています。

著者は、「あなたがたが、怠け者にならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たち、を見倣う者となってほしいのです」と、述べています。著者にとっては、“信仰と忍耐”という二つの概念によってのみ、「神の約束」を相続する者、即ち、神の約束の成就に与る者となる資格があることを示しています。

著者は、「信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人達達」の中でも、最も有名な人としてアブラムを引用しました。彼の場合、「神によって約束されたもの」とは、「アブラムが神に祝福され、子孫がひとつの大きな国民になる」ということ事でした。それが実現する為には、まず高齢のアブラムとサライとの間に、イサクの誕生が必要でした。それが、長い時間をかけて実現して、アブラムは約束の成就を得るに至ったのです。即ち、イスラエルは大きな国民となりました。

15節には、「こうしてアブラハムは、根気よく待って、約束のものを得たのです」とあります。彼は、“根気よく”、即ち、“信仰によって”待ち望んだ結果、「約束のもの」、一つは、「イサクの誕生」、二つめに、「子孫を大いなる国民とする」という約束を得たのでした。

神様によって保証された“希望”、即ち、“神に約束された救い”とは、報酬や努力の結果ではありません。それは、荒海を航海する船にとっての錨のようなもの、に譬えられています。イエス様はご自分の死と引き換えに、神殿の垂れ幕を破って下さり、至聖所の奥迄入って行かれ、ユダヤ教の大祭司のように、私達の為に、執り成しの祈りを祈って下さっています。私達に与えられると約束された救いの賜物は、努力や報酬の見返りに約束されたものではありません。求められるのは、“信仰”のみ、です。そして、信仰に生きる者は、喜びの内に、兄弟姉妹の愛を通して、生きるのです。






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