説教

2016年9月11日

 父が栄光を受けられる
大坪章美


ヨハネによる福音書15章 1-8節






イザヤは預言します、「さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を固く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい憤りが過ぎ去るまで」と、主の言葉を語っています。そして神の審判が、全宇宙的な規模であることを語っています。27:1節です、「その日、主は、厳しく、大きく、強い剣を持って、逃げる蛇、レビヤタンを罰し、また、海にいる竜を、殺される」と預言されています。

27:2節の冒頭は、再び、「その日には」と、語り出されます。「見事なぶどう畑について、喜び歌え。主である、わたしは、その番人。常に水を注ぎ、害する者の無いよう、夜も昼も、それを見守る」と、歌われています。主なる神様は、「見事なぶどう畑、麗しいぶどう畑」と、呼ばれています。イスラエルの民が、良いぶどうの実をつけて、神が、それを、喜んでおられるのです。番人である主なる神、ヤハウェは、ぶどうに水を与えるために、定期的に水を遣り、時期に適って、露と雨を与えよう、と言われています。

こうして、主なる神様は、「もはやわたしに、怒りは無い」と、言われながら、一方で、“茨”や、“おどろ”に例えられたイスラエルの民の中の、偶像礼拝に走る勢力を、徹底的に滅ぼす、と宣言されています。
「時が来れば」とは、“すべてのイスラエルの民が、神に服従する時”です。そして、終わりには、この地上の世界が、イスラエルの民に属するようになるまで、民全体が成長し、数を増して行くのです。

この、イザヤ預言から、およそ八百年もの時が流れて、紀元30年頃、イエス様は、弟子たちに語られました。ヨハネによる福音書15:1節です。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、話されました。イエス様が譬えられた「ぶどう園」は、「ぶどうの木であるイエス様ご自身と、その枝である、弟子たち」を指しています。イエス様は、話を続けられました、2節です、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は皆、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と記されています。「実をむすばない枝は、みな、父が取り除かれる」と言われています。

何が何でも、わたし達は、実を結ばなければなりません。一体、どうすれば良いのか、・・と申しますと、その答えが、3節で語られています。イエス様は、「わたしの話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている」と話されました。イエス様は、“ロゴス”即ち、“言葉”が受肉された方です。そのイエス様に直接接して、その言葉に聞き従う、という事は、イエス様の内に宿る、聖霊によって清められるのと同じことです。

イエス様は仰います、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなた方につながっている。」と言われました。ぶどうの蔓は、自分の力で実を結ぶことが、できません。ぶどうの枝につながって、養分を貰うことによって、豊かに実をつけることができるのであって、枝から切り離されてしまい、養分が補給されなければ、枯れてしまうしかないのです。そして、それが、父なる神と、御子キリスト・イエスと、弟子達との愛の交わり、即ち、一体性の関係であって、弟子達が実を結ぶ為の、唯ひとつの可能性、なのです。キリスト者が実を結ぶには、神の力と、働きとを、前提とするのです。

7節には、もう一度、イエス様の約束の言葉が語られています。「あなたがたが、わたしにつながっており、わたしの言葉が、あなたがたの内に、いつもあるならば、望むものを、何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる」と、言われました。「イエス様の内に、留まっている」ということは、“具体的に、どういうことか”、と申しますと、「イエス様の言葉、即ち、父なる神様の掟を守ること」に他なりません。今、イエス様は、弟子達が、父、御子との一体性を保って、その意思をイエス様の御意思に一致させるならば、弟子達の願い求めることはすべて聞かれ、それは、父なる神の喜びであり、神に栄光が帰せられる、と言われました。

わたしたちの思いを、イエス様の御意思に合わせましょう。そうすれば、わたしたちの願い求めることは聞き届けられ、神に栄光が帰せられるのです。






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