説教

2016年7月24日

神の前にへりくだる
大坪章美


ヨハネによる福音書 13 章 1-15節





預言者ミカが、若い時、紀元前722年、隣国の北イスラエルが、アッシリアに滅ぼされ、住民のイスラエル10部族の殆どが、ユーフラテス川より東の国々に移住させられた大事件を目撃しました。ミカは、やがて、南王国ユダも、東のバビロニアによって攻め滅ぼされ、神殿は焼け落ちるとの預言を語りました。

確かに、エルサレムは、このように苦難の中に投げ込まれ、敗北して、その住民は捕虜として、バビロンに引かれて行くのですが、これらは、神の必然なのです。なぜならば、このような苦難を通して、はじめて、父なる神ヤハウェは、苦難を転じて、エルサレムを敵の手から解放するご計画を持っておられるからです。

ヤハウェの告発の言葉です、「民の心が神から離れてしまったのは、何か、神の側に落ち度があったからなのか」と問いかけられました。数え上げたらキリがない程、主なる神様はイスラエルの民に、良い業を行われたのに、彼らは、主に疲れ、主を離れて行ったのです。そして、これは、私達、現代の人間の姿でもあります。信仰を離れた人々は、その理由を挙げつらいます。然しそれは、圧倒的な恵みに感謝する事なく、単に、自らの躓きに捕らわれていることが、多いのです。

ミカは、「私達は、あなたを見失っていました。再び、あなたとの交わりを取り戻す為には、何を持って御前に出れば良いでしょうか」と問いかけています。罪を贖って貰い、救いを得る為には、主に何を捧げればよいのか、こういった、民の激しい感情を持った問いは、内面の不安の裏返しで、どんな代価を支払ってでも、主なる神様との完全な関係を持ちたいという、強い希望が表れた結果でした。父なる神様は、8節で答えられます。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている」と仰いました。

わたしたちも、時として、神の御心が分からなくなる時があるものです。そういう時に、何から手を付ければよいか。神様は答えておられます。それは、三つあります。第一は、“正義”です。二つ目に“慈しみ”です。そして三つ目に、「へりくだって、神と共に歩むこと」です。神と共に歩む時、“自己主張”は、つまずきのもとです。自分を無にして、ひれ伏さなければ、“神の愛”が働く余地がないからです。

時は変わって、紀元三十年の春、明日はイエス様が十字架に架られるという日の前日でした。イエス様は、「食事の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って、腰にまとわれた。」と、記されています。「手ぬぐいを腰に巻いて、人の足を洗うこと」は、当時は、奴隷のする仕事でした。この突然の行動には、居合わせた弟子たちは、びっくり仰天したに違いありません。

そこで、ぺトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗って下さるのですか」とお尋ねしました。ペトロが分からなかったのは、「メシアと信じている、神の御子、イエス様が、なぜ、奴隷でさえもしり込みするような、“人の足を洗う”という卑しい仕事をされるのか」ということでした。ペトロが分からなかった理由は、イエス様の行いを、「この世の基準」で考えていたからにほかなりません。この世の基準で、「名誉」というのは、「人の上に立つこと、人から褒めそやされること」です。然し、「神の基準」で、「栄光」というのは、「限りなく人を愛し、人を救うために、自分の命を棄てること」です。人と神では、価値観が逆転しているのです。

イエス様は、弟子たち12人の足を洗い終えると、上着を着て、再び席に着いて、「わたしがあなたがたにしたことが、分かるか」と、言われました。そして、続けて、「主であり、師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに、足を洗わなければならない」と、仰いました。

ここに至って、わたしたちは、預言者ミカが聞いた神の声を、改めて思い起こすのです。主なる神様は言われました、「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。“正義を行い”、“慈しみを愛し”、“へりくだって神と共に歩むこと”これである」。わたしたちは、主イエス・キリストの洗足の御業のうえに、神の預言の成就を見るのです。





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