説教

2016年6月12日

 神から出た霊
 大坪章美


ヨハネ一3章16-4章1節





エレミヤ書23:18節の、「誰が主の会議に立ち、また、その言葉を見聞きしたか。誰が耳を傾けて、その言葉を聞いたか」という預言は、偽預言者たちについて語っているものです。聖書に出て参ります真の預言者と、偽預言者との違いは、召命を受けた時で、明らかです。エレミヤは、「わたしは、若者に過ぎません」と、躊躇しました。逆に、偽預言者は、自分を売り込み、人に認めて貰おうと、自分を宣伝します。  

そして、23節。エレミヤは、「わたしは、唯近くにいる神なのかと主は言われる。わたしは、遠くからの神ではないのか」と語っています。茲で、「近い」とか、「遠い」とか、言われているのは、民衆の事ではありません。主なる神と、預言者との距離の事を言っています。預言者が「自分の考えによる言葉を、『神の言葉と同じ』と見做す程に、神は自分に近い」と思うなら、それは誤りであり、神の絶対性を冒涜する事になります。そして、神との距離を置くときに、神と預言者との間にある本質の根本的な違いが見えてくるのです。

神様は、人間とは異なって、知覚や感覚の限界に、制約されることがありませんから、隠されたどんなことでも、神にだけは明らかです。それが、24節で言われている、「天をも、地をも、わたしは満たしているではないか」という言葉に表れています。エレミヤは必ずしも、“自分たちの夢を偉そうに語る偽預言者の自己満足”を否定しているのではありません。ただ、大切なのは、“単なる、夢”と、“真の神の言葉”とを、はっきりと区別することを求めているのです。

エレミヤが、「真の神の言葉」を語り続けたように、イエス様の弟子、ヨハネは、「神から出た霊」について、語りました。彼は、まず、イエス様の遺言であった、「互いに愛しなさい」という掟について記しています。ヨハネの手紙一の3:16節です、「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによってわたしたちは愛を知りました」と言っています。イエス様は、自ら、人間の罪を贖うために十字架の死を遂げられ、“愛の御業”を成就されたのです。わたしたち、キリスト者は、この、“愛の御業”の延長線上にあって、兄弟姉妹が共に愛し合う義務を負っています。

イエス様がなさったように、“命を捧げる”事は特殊な場合です。然し日常生活で、誰かが困窮していることはあり得ます。この場合、裕福なキリスト者が助けを求めている人々の窮状を知り乍ら、自分自身の憐みの心を利己心によって抑え込んでしまう時、その人の心には神の愛が宿っていない事が自分で分かるのです。
その憐みの心で大切なのは、“キリストの愛”がそうであるように、“行いとなって”表れなければならないのです。今まで述べられた、「行いによる愛」こそが、真のキリスト者である事の証明であり、「そのような人は、神の御前で安心できる」とヨハネは言っています。“愛”は、それ程に大きな存在です。愛が私達を救ってくれます。時に、わたし達は、「自分が、真のキリスト者であろうか」、と疑わしくなるときがあります。また、自分の心の中に、様々な罪を意識することがあります。しかし、「わたしたちの心の中に、隣り人に対する愛があれば」、それは、「わたしたちの心の中に、キリストの愛が宿っている」ということの証拠なのです。

イエス様が与えられた掟、「互いに愛し合いなさい」という掟を守る人は、いつも神の内に留まっていて、神もその人の内に留まってくださっています。ここに、ヨハネは、“奥義”を示しています。「神がわたしたちの内に、そして、わたしたちが神の内に留まっていること」が神の奥義なのです。

そして「神がわたしたちの内に留まって下さっている」という、その根拠は、“聖霊”にあります。私達の内に聖霊が宿っているならば、神様が私達の全存在を支配されている事になります。そして、この“聖霊”が、私達に救いの確信を保証して下さいます。「わたしたちの内に宿ってくださる聖霊」こそ、紀元前580年頃に、預言者エレミヤが語った「わたしの言葉を受けた者は、忠実に、わたしの言葉を語るがよい」という言葉に示された、「真の神の言葉」を指しています。





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