説教

2016年4月24日

再びあなたがたと会う
大坪章美


ヨハネによる福音書 16 章 16-24 節




エレミヤは、紀元前650年頃、エルサレムの北東5キロメートル程の所にありますベニヤミンの地、アナトトの町で生まれました。エレミヤの生き方は、まさに、戦いそのものでした。エレミヤは、契約の神の要求を、厳しく、民に迫りましたので、生まれ故郷のアナトトの人々から命を脅かされました。或いは、エルサレム神殿において、大胆な説教を語ったために、祭司たち、預言者たちによって、命を狙われました。

ユダの民は、バビロニアの王、ネブカドネツァルによって、数回にわたって、バビロンへ移住させられました。それらは全て、エレミヤが生きている間に起こりました。これらのバビロン捕囚は、すべて、ユダの国王をはじめ、貴族も国民も、みなエレミヤの預言を顧みなかった結果、起きたことでした。

そして、ユダの国王にゼデキヤが即位して間もなく、エレミヤは、バビロンで捕囚の民にされている同胞に、手紙を書きました。「主は、こう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしは、あなたたちを、顧みる。わたしは、恵みの約束を果たし、あなたたちを、この地に連れ戻す」と、記されています。

このイスラエルの民が、70年という試練の時の後に、捕囚から解放されて、ユダに帰り着き、悲しみの後に、喜びを経験したように、“悲しみが、喜びに変わる”という約束を、イエス・キリストが語られました。

イエス様は、弟子たちと食事を共にされた後、弟子たちに、告別説教をされました。イエス様は、夜明けには、御自分が、人間の罪のすべてを、ご自分の身に負って、十字架に架かられ、天に上られることをお分りになったうえで、話されたのです。16:16節では、「しばらくすると、あなたがたはもう、わたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、話されました。不思議な言葉です。しかし、弟子たちには、この、「しばらくすると」という言葉の意味が分かりませんでした。

イエス様は、20節で、はっきりとお答えになりました、「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは、喜びに変わる」と仰いました。イエス様は、夜が明けたら、過越しの祭の日に、死ぬことになっているご自分の歩む道を、見通しておられました。そして、ご自分のご受難と死を目の前にして、弟子たちは泣いて悲嘆にくれるであろうと、話されています。また、このことは、この世の人々を喜ばせるであろう、と仰っています。

しかし、それだけでは終わりません。イエス様は、続けて仰いました、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは、喜びに変わる」と言われました。“この世の喜び”と、“弟子たちの悲しみ”とが、逆転する日が来る、と仰るのです。そして、その日は近いのです。「その喜びを、あなたがたから奪い去る者はいない」とイエス様が約束して下さいます。これを、真に信じられるならば、その視点から見た人生も、歴史も、大きく変わります。父なる神とイエス様と、弟子たちとの一体性、愛の交わりを信じて、経験すると言うことは、決して特殊なことではありません。

イエス様は、23節で言われています、「その日には、あなたがたは、もはや、わたしに、何も尋ねない。はっきり言っておく、あなたがたが、わたしの名によって、何かを父に願うならば、父はお与えになる」と仰いました。わたしたちは、ここで、エレミヤが語った新しい契約の預言を思い起します。エレミヤ書31:9節の、後半です。エレミヤは、主なる神の言葉を語りました、「わたしは、イスラエルの父となる」と語りました。イエス様が仰った、「父に何かを願うならば、父はお与えになる」というお言葉の、“父”とは、“わたしたちの父”なのです。そしてわたし達の祈りは、「イエス・キリストの名によって」なされなければならないのです。わたし達が持っているものの全ては、イエス・キリストを通して与えられました。わたし達が願い求め、そして、受け入れられるのは、「イエス・キリストの名によって」なのです。そうすると、願うものは与えられ、私たちは、喜びで満たされるのです。







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