説教

2016年3月6日

心の内に輝く光
大坪章美


コリントの信徒への手紙二 4 章 1-6 節





第二イザヤは、バビロンの囚われ人の中で声を上げます。同胞であるユダの指導的立場の人々が、バビロンの郊外に抑留されて、60年もの時が経とうとしていました。このような時期に、第二イザヤはイスラエルの民の、バビロンからの解放を預言しているのです。
「慰めよ、慰めよ」という言葉は、民を助け、回復させて下さる神の介入を意味しています。

然しそれは、どのような手段によって実現されるのでしょう。なんと主なる神様は、異邦人であるペルシャの王、キュロス二世をご自分の代理人であるメシアとして用いて、キュロスを通してイスラエルのバビロンからの解放の業を遂行しようと、計画されたのです。

そして、大切なことは、主なる神様が、このようにキュロス王をメシアとして用いられるのは、決して、キュロス自身のためではなく、「イスラエルの民のためである」ということです。キュロスの役割は、1回限りなのです。キュロス王は、1回限りの主の任務を遂行するために用いられるのであって、「神から選ばれた僕」或いは、「神との永遠の関係である僕」としての扱いはされないのです。7節で、「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」と、記されています。すべて、造られたものは、光も闇も、救いも災いも、主なる神、ヤハウェにのみ、帰せられるべきである」と、言っています。「光も闇も、平和も災いも、わたしが創造した」との神の言葉を述べています。これによって、あらゆる二元論が、徹底的に締め出されています。主なる神様が悪や災いをも造られたのであれば、悪や災いもまた、神のご支配のもとにあるのですから、もう、“悪魔”の占める場所は、無くなったのです。

第二イザヤが、イスラエルの民のバビロン捕囚からの解放を預言してから、600年ほども後のことです。パウロは第三回伝道旅行の途上にあって、マケドニア州に滞在していました。おそらく、フィリピの町で、今日お読み頂いた、コリントの信徒への手紙を書いていたものと思われます。パウロは、これからコリントの教会へ、3度目の訪問をするに先立って、「和解の手紙」と呼ばれる手紙を書いていたのです。

パウロは、「こういうわけで、わたしたちは憐れみを受けた者として、この務めを委ねられているのですから、落胆しません」と、記しています。パウロが担っている務めは、パウロ自身の努力や、学問の結果、得られたものではなく、「それは、神の一方的な憐れみによって、与えられたものあるからである」と言っています。“神の一方的な憐れみによって、委ねられた務め”であるから、そこには、それを遂行するのに必要な力が、同時に与えられる、ということを、言っています。
そして福音を語って、全ての人を信仰に導こうとしましたが、全て人が福音を受け入れる訳ではありません。その理由を3節で言っています、「私たちの福音に覆いが掛かっていとするなら、それは、滅びの道を辿る人々に対して、覆われているのです」と、記しています。

パウロは、ここで、キリストを通して神から与えられる光について述べています。創世記1:3節の引用です。そこには、「神は言われた、『光あれ』、こうして光があった」と記されています。パウロは、この個所を、「『闇から光が輝き出でよ』と神は命じられた」と引用しています。思えば、イザヤがペルシャの王、キュロスについて、神の言葉を語った時、「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主。これらのことをする者である」と語りましたが、今、パウロは、神による二度目の光の創造を語っています。かつて、主なる神が創造された、光、闇、平和、災い、の世界に於いて、パウロは、「闇から光が輝きいでよ」と命じられたと記しています。闇から光が輝きい出るのですから、もはや、闇は消え去っています。「神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く、神の栄光を悟る光を与えて下さいました」と述べています。今、信じる者の心が照らし出され、この、神が与えて下さる光によって、神の栄光を知ることができたのです。









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