説教

2016年1月10日

新しく創造された者
大坪章美


コリントの信徒への手紙二 5 章 11-17 節



この時迄に、パウロはコリントの信徒達に、「最初に書いた手紙」、「コリントの信徒への手紙一」、「涙の手紙と呼ばれる手紙」の3通の手紙を書きました。今回、喜びの内に、コリントの信徒へ宛てて書いた手紙が、4通目の手紙となります。この手紙が、コリントの信徒への手紙二の1章から9章までの部分に相当します。

パウロは5:11節で、「主に対する畏れを知っているわたし達は、人々の説得に努めます」と、記しています。わたし達は、皆、自分で、自分が犯した失敗を知る事は、難しいと感じています。詩編19篇の作者も、13節で願っています、「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください」と祈っています。パウロは、自分自身が自分の心の真の裁き主ではない事を知っていて、「主のみが、真の裁き主であられる」と言っているのです。そして、パウロの表現によりますと、その一つ一つの思想や行いに対して個別の報いや罰があるのではなくて、その人の全生涯に対して、裁きが下される、と言っているのです。これが、パウロが言っている、“主に対する畏れ”の事です。

一時期、コリントの教会に入り込んだ異端の教師達が、「パウロは、キリスト・イエスが任命した、正式な使徒ではない」とか、「パウロはエルサレム教会の推薦状を持っていない」とか声高にパウロを誹謗中傷した事に反論して、“在りのままのパウロという伝道者”を信用してほしい、と訴えているのです。外面的な形式よりも重要なのは、「裁きの日に、キリスト・イエスが調べられる内面的な心である」と、言っているのです。

パウロは、5:13では、「もし、わたしたちが、気が狂っているとすれば、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです」と言っています。このことは、実際、パウロは、忘我状態になったことがあることを示しています。コリントの信徒への手紙二の12:1節以下には、パウロが、体のままか、体を離れてかは分かりませんが、誰も経験したことの無い、第三の天、つまり、神の御許近くまで上げられた体験を語った箇所があります。

これらの言葉によって、パウロが主張していますのは、「自分が我を忘れるような状態にある時も、理性的に行動している時も、ただ、キリストのためであり、また、人々のためであった」と、言っているのです。

そして、このようなパウロの行動の原動力について語ります。パウロが、「自分のために生き、行動しているのではなく、神のため、そして信徒のために生き、行動しているのは、“キリストの愛が、パウロを支配している”からである」と言っています。パウロは、「キリストの愛について」述べています。「キリストが、全ての人々の為に、その罪の代理人となって、死んで下さった以上、すべての人々はその死に与って、共に死んだ事になります。そして、それ故に、すべての人々は、罪を赦されて、新しい命を生きる事になるのです。

パウロは、「それで、私達は、今後、誰をも肉に従って知ろうとはしません」と言っています。パウロが、以前に人々を見ていた方法は「肉に従って」、つまり「人間的なもの」が基本になっていましたが、ダマスコへの途上でイエス様の御声を聞いて回心した時から、「霊に従って」人々を見るようになった、と述べています。

17節でパウロは、「キリストと結ばれる人は、誰でも新しく創造された者なのです」と、言っています。

パウロはかつて、イエス・キリストを人間的な基準、つまり、肉の目でみていました。ユダヤ教の律法を意に介さないイエス・キリストを破滅させ、キリスト信者たちを根こそぎ滅ぼし、キリスト教信仰を抹殺しようと、行動していました。それが、ダマスコ途上の回心を境に、判断の基準が変わってしまったのです。かつて、ユダヤ教の敵と考え、その名も実態も消し去りたいと考えた、・・そのお方自身が、今では、パウロにとって、主となったのです。何故、パウロは、これ程変わったのか。それは、パウロが、生涯を通して求めながら、遂に見出し得なかった“神との和解”を、キリスト・イエスだけがもたらして下さったからなのです。パウロも、新しく創造された人間の一人でした。



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