説教

2015年11月22日

涙を流して教えてきたこと
大坪章美


使徒言行録 20 章 22-35 節



今日お読み頂きました、冒頭、パウロは、エフェソの長老達に、遺言ともとれる言葉を残しています。そこには、「そして、今、わたしは、“霊”に促されて、エルサレムに行きます。そこで、どんな事がこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが、私を待ち受けている事だけは、聖霊が、どこの町でもはっきり告げて下さっています」と記されています。結局、「投獄され、また、苦難に遭わされた結果」、果たして、「死ぬのか、或いは生きるのか」一体、どうなるのか、が分からない、という事を言っているのです。

25節では、「そして今、あなたがたが皆、もう二度とわたしの顔を見ることがないと、わたしには分かっています」と述べているのです。28節では、パウロは、珍しく、羊と羊飼いのイメージで話しています。エフェソの長老たちに、「どうか、あなたがた自身と、群れ全体とに気を配って下さい」と頼んでいます。パウロは、エフェソから呼び寄せた長老たちを、自分の後継者と考えているのです。そして、「どうか、あなた方自身と、群れ全体とに、気を配って下さい」と依頼した、具体的な依頼内容が、29節に、示されています。そこには、「わたしが去った後に、残忍な狼どもが、あなたがたのところに入り込んできて、群れを荒らすことがわたしには分かっています」と、記されています。パウロは30節で、悲しい預言をいたします。「また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて、弟子たちを従わせようとする者が現れます」と言って、内部からの破たんを警戒させます。即ち、外部からの狼どもはユダヤ教の迫害を指していますし、「内部からの、邪説を唱える者」とは、グノーシス主義の虜になった、異端の教師たちが想定されていると思われます。

この、ユダヤ教徒のような外部からの敵にも備え、また、グノーシス主義者のような内部から起きる異端の教師たちの邪説にも惑わされない様にするためには、何を基準にして考えたら良いのでしょうか。パウロは、その答えを、31節以下に記しています。

まず、第一に、「パウロが夜も昼も涙を流して教えて来た戒めと、生活上の実践を思い起こして目を覚ましていなさい」と言っています。実際に、パウロは、頻繁に、夜中に天幕作りの仕事に励んだこともありましたし、また、魂を看取る者として、教会の群れの中で語り合って、祈っていたのです。

二番目に、パウロは、「そして今、神と、その恵みの言葉とに、あなたがたを委ねます」と、言っています。ここで語られた、「神と、その恵みの言葉」という表現は、新約聖書の中では、ここにしか出てこない表現です。パウロは、どのような勧めや警告、そして、イエス様のお姿や、パウロ自身の働きを口にするよりも、“執り成しの祈り”の方が効果的であり、重要であることを知っていました。主なる神ご自身が、すべてを為して下さるに違いありませんし、神は、それを、御言葉をもって、行われるのです。

そしてパウロは、最後に、「弱い者を助けるように」との勧めを、自分自身の姿を通して語りました。実際、パウロは、これまでの生き方の中で、自分の財産を得ようなどとは考えたことはありませんでした。

パウロは、このように、「自分を例外とするのではなく、皆の模範とするように」、そして、それによって、「弱い人々を助けるように」実行しなさい、と勧めているのです。そしてパウロは、いつものように、話の最後で、エフェソの長老達の視線を、自分から、イエス様へと移させます。35節です、「受けるよりは与える方が幸いである」というイエス様のお言葉を思い出すように勧めたのです。パウロは、この勧めを、長老達にのみ実行させるつもりはありません。自分自身は、これまで、そのように行動して来た、と言っています。

これで、パウロの、エフェソの長老たちに向けた別れの言葉は、終わります。パウロが、「もう二度と、自分の顔を見る事はあるまい」と言ったので、人々は皆、激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した、と記されています。わたしたちも、この、パウロが涙を流して教えたことを、心に留めたいと思うのです。



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