説教

2015年10月18日

ラザロのよみがえり
大坪章美


ヨハネによる福音書 11 章 28-44 節



イエス様と弟子たちがベタニア村に入りますと、ラザロは墓に葬られて、既に四日も経っていました。村の入り口まで迎えに出て来た姉のマルタが、イエス様に、「主よ、もしここに居て下さいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。もっとはっきり言いますならば、「主よ、何故、もっと早く来てくださらなかったのですか」と言いたかったのです。でも、直ぐに、続けて、イエス様に対する信頼の言葉を口にしました。マルタは、「しかし、あなたが神にお願いになることは、何でも神はかなえて下さると、わたしは今でも、承知しています」と言ったのです。

これに対して、イエス様は、「あなたの兄弟は、復活する」と言われました。然し、このように言われても、姉のマルタは全く喜ぶことも無く、「終わりの日の復活の時に、復活することは存じております」と答えました。マルタは、イエス様が仰った、「ラザロは復活する」というお言葉を聞いて、「それは、世の終わり、という遠い未来のこと」と言う風に、理解していたのでした。

そこで、イエス様は、マルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者は、だれも、決して、死ぬことは無い。このことを、信じるか」と、仰ったのです。分かり易く言いますと、イエス様が仰ったのは、「私自身が、復活なのだ」ということです。イエス様、ご自身が、「復活である」と、仰るのですから、ラザロが復活するのは、「世の終わりのこと」ではなくて、「今」なのです。イエス様がおられるところでは、未来のことでも、「今」起きるのです。イエス様が、「このことを信じるか」とマルタにお尋ねになりましたら、マルタは即座に、「はい、主よ、あなたが世に来られる筈の神の子、メシアであると、わたしは信じております」と答えました。

イエス様は、みんなが泣いているのをご覧になって、「心に、憤りを覚えた」と、記されています。なぜ、イエス様は、怒りを覚えられたのでしょうか。

イエス様は、愛する者同士が、“死”というものによって分けられてしまう、という現実に、憤りを覚えられたのでした。この、みんなの悲しみの原因になっている、「死が勝ち誇っている」という光景をご覧になって、心に強い怒りを覚えられたのでした。そして、イエス様は、ラザロが葬られている墓の前に来られました。墓は岩に掘られた横穴でした。墓の入り口には、扉は無くて、入り口の足元の岩には溝が掘ってあり、大きな車輪のような丸い石がはめ込まれていました。

イエス様は、周りに居る人達に、「その石を取り除けなさい」と命令されました。そうすると死んだラザロの姉のマルタが、「主よ、四日も経っていますから、もう臭います」と言って石を取り除けるのをためらいました。マルタの考えている事も当然の事でした。死んでから四日も経っている、という事は、ラザロが息を吹き返すような可能性が全く無くなった、という事ですし、又遺体の状態も、生きている時のラザロとは変わり果てて、見るに耐えない状態になっている可能性が大きかったので、マルタは一瞬たじろいだのでした。

イエス様は、そのようなマルタに仰いました、「もし、信じるなら、神の栄光が見られる、と言っておいたではないか」と言って、諭されました。そして、人々が、墓の入り口の丸い大きな石を横に転がして、墓の入り口をあけると、イエス様は、天に向かって祈り始められました。「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって、感謝します。」と祈られたのです。イエス様は、祈られた後、墓に向かって、大声で叫ばれました、「ラザロ、出てきなさい」と命令されました。そうしますと、墓の中から、死んでいたラザロが手足を包帯で巻かれて、顔を布で覆われたまま、歩いて出てきたのです。 

イエス様は、人々にラザロの顔の覆いを取って、手足の包帯をほどいてやって、姉のマルタとマリアの所へ連れて行くよう命令されたのです。このように、弟子達やユダヤ人達は、復活の命そのものが、終わりの時を待つまでも無く、現在、既に、信じている者には与えられる、という御業を目にする事ができたのです。



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