説教

2015年8月23日

弱い時にこそ、強い
大坪章美


コリントの信徒への手紙二 12 章 1-10 節



パウロは、冒頭で、「誇らずにはいられません」と言っていますが、これは、謙虚である筈のパウロにしては、似つかわしくない言葉のように思えます。古代社会の多くの宗教では、このような不思議な体験が、神の恵みの徴として、考えられていました。実は、パウロにも、このような徴が与えられていたのです。然も、その時より14年も前の、紀元42年頃のことで、パウロにとっては個人的な経験でありましたので、14年の間、自分の胸の内に秘めていたものと思われます。

パウロが体験したのは、パウロの中にある霊の人、肉の人の内、霊の人が第三の天にまで引き上げられる、という体験でした。パウロの中にある“霊の人”が、天上の楽園にまで引き上げられた、という経験は、まさに、「終末の出来事の先取り」という性格を持つ出来事でした。パウロは、このように、自分自身を三人称で語り、偽の教師たちが、「自分は幻を見た」とか、「自分は、天に昇った」とか言って、自分を誇っていることに優る経験をしたことを語ったのです。

パウロは、自分の中にある“肉の人”としては、一人称で、「しかし、自分自身については、弱さ以外に、誇るつもりはありません」と言っています。自分自身を誇ろうとはせず、主なる神を誇ったのです。それと、もうひとつ、パウロが、自分の経験を誇ることを控える、理由がありました。それが、7節に記されております、「また、あの、啓示されたことが、あまりにも素晴らしいからです」という思いでした。パウロが第三の天まで引き上げられ、特別な啓示を与えられた経験は、あまりにも素晴らしく、このような経験をした者が、これを誇り、自慢したくなるのは自然の流れでありました。然し、パウロは、地上に生きる人間として、これを誇ろうとはしませんでした。・・いいえ、正確に申し上げますと、誇らないようにさせられたのでした。

パウロは、「それで、そのために思い上がることが無いようにと、わたしの身に、ひとつの“とげ”が与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」と記しています。パウロが、肉体に与えられた“とげ”については、具体的には、明らかではありませんが、激しい痛みをもたらすものであったと思われます。いろいろな説がありますが、最も可能性が高いと思われますのは、マラリア熱を慢性的に患っていて間歇的に激しい痛みを起こしていた、という考え方があります。

パウロに限らず、わたしたち人間は、それぞれ、生きていく上での“とげ”を持っています。ある人には、取り返しのつかない出来事として、記憶に残っているかもしれません。あるいは、あの人が居ることによって、苦しんでいる、と、今でも、耐えきれない生活をしている人が居るかも知れません。パウロは、この「サタンから送られた使い」について、三度、主にお願いした、と記されています。

然し、主は、パウロが願った形では祈りを聞き入れられませんでした。それどころか、返ってその苦難が、パウロにとって必要である事を、祈りの中に啓示されました。即ち、「神の力は、人の弱さとは切り離されることなく、むしろ、弱さの中に初めて、完全に現れる」のです。つまり、「恵みとその働き」とは、「人の弱さ」という部分を踏まえて現れるのだ、と言われるのです。

こうしてパウロは、「自分の弱さを誇る」という境地に達したのです。パウロが、「肉体のとげ」という苦難を負っているという事は、主イエスと、主イエスの恵みから、「切り離されない」ということと、同じ事なのです。キリスト者の「苦難」と「弱さ」は、絶望の理由になることはなく、「神の恵みの働く場所」なのです。

わたしたちキリスト者の力は、「自分の弱さの中に、現れる」のです。先に申し上げましたように、わたしたちは皆、何らかの「肉体のとげ」を抱えて生きています。パウロは、自分の「肉体のとげ」を喜び、感謝しました。何故なら、この、「肉体のとげ」に、苦しみ悩む時にこそ、神の恵みが働くからです。
 わたしたちも、自分が抱えている、「肉体のとげ」を認めて、救い出して下さるように、主に願いましょう。



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