説教

2015年6月7日

キリスト者の自由と愛
大坪章美


ローマの信徒への手紙 14 章 13-23 節




パウロは未だ見ぬローマの信徒達へ手紙を書き送っています。未だ会った事も無い信徒に宛てた手紙でありますから、手紙の書き出しから、特に、ローマの教会に特有の事に関する内容のものはありませんでした。

しかし、14章になると、パウロは、ローマの教会を揺さぶるほど、大問題になっていたことに触れるのです。そして、その大問題とは、ローマの教会の中に二つのグループがあって、互いに争っていたことです。

まず、「信仰の弱い人」とパウロが呼んでいる人達は、幾つかの特徴を持っていました。信仰の弱い人たちは、宗教的な理由によって、肉を食べません。菜食主義者、いわゆるベジタリアンです。お酒も飲みません。また、一定の日を定めて、これを特別に守っていました。
純粋に、“禁欲主義的な考え方”に根差していたのです。

そしてもう一つ、多数派を占めるグループ、パウロが「わたし達強い者」と呼んでいる人達がありました。
この「信仰の強い者」とパウロが呼んでいるグループは、“禁欲主義”的考えには捉われず、「何を食べても、何を飲んでも良し」として、又特定の日に縛られる事も無く、全てに自由な人々でした。この点、パウロ自身も「全てに自由な人々」に自分の身を置いています。

この「信仰の強い人達」から見ますと、「信仰の弱い人達」には二つの偏見が感じられました。ひとつには、信仰の弱い人達は、「キリスト者の自由」の本当の意味を理解していないのです。そして二つめの偏見は、信仰の弱い人達は、未だに、“行いの効力”という信仰から解き放たれていません。“神の恵み”を「或る事を行うことによって」、或いは、「或る事を行わないことによって」獲得できるという信仰に留まっているのです。

パウロは、13節で述べています、「従って、もう互いに裁き合わない様にしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」と、勧めています。

これまでは、「信仰の強い者達」が「信仰の弱い者」達に対して、彼らの“禁欲的な生き方”を蔑み、嘲る態度をとって、又一方「信仰の弱い者」達が、「信仰の強い者」達の、「何ものにも捉われない自由さ」を裁いていた事に対し、パウロは、どちらのグループの行いも、「主の栄光を顕す為に行っている」と、理解を示してきましたが、13節に至って初めて、「どちらのグループも、互いに相手を裁いている」と非難し始めます。

この、13節でパウロが語り出した、「もう、互いに裁き合わないようにしよう」という提案は、「信仰の強い人」たちのグループに対して語られたものでした。

パウロは、もし、「信仰の強い人達」が、自分達には何の害も無い、と思って、自由に肉を食べ、酒を飲んでいると、それを見ている「信仰の弱い人」達が、心を痛めるでしょう、と言っています。そして、そうなれば、「信仰の強い」あなた達は、もはや、“愛”に従って歩んでいるとは言えない、と断言しています。そのような、信仰の弱い人達の為にも、キリストは死んで下さったのだから、その人達の思いを踏みにじるならば、「キリストの贖いの死を無駄にし、キリストの恵みに対して罪を犯す事になる」と警告しているのです。

キリスト者は、全てに自由であることは疑いの無い事実です。しかし、一つだけ、制限があります。それは、キリスト者に与えられている自由も、隣り人への愛に悖る場合、即ち、隣り人の利益に相反する場合には、自ら、自発的に抑制すべきなのです。そしてパウロは、「信仰の弱い人達」にも、勧めを与えています。23節です、「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます」と言っています。禁欲主義的な考えに捉われている弱い人達は、自分の良心に反してまで、信仰の強い人達に合わせる必要は無い、と勧めています。むしろ、自分の良心に反して、多数の人に合わせる為に肉を食べ、ぶどう酒を飲むならば、それこそ“罪である”と教えています。

パウロにとって、信仰の強い人たちが正しいか、信仰の弱い人たちが正しいか、は二の次なのです。主イエスを頭とする教会が、聖霊の働きによって、全ての人の救いの場、となることが最も大切なことなのです。




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