説教

2015年5月3日

二つの真理
大坪章美


ヤコブの手紙 2 章 14-26 節




今日お読み頂きました2:14節で、ヤコブは二つの問いを発しています。まずひとつは、「行いの伴わない信仰が、何の役に立つのか」と言って、実行の伴わない口先だけの信仰を、攻撃しています。そして、その結果の二つめの問いは、「そのような信仰が、彼を救うことが出来るでしょうか」というものです。

ヤコブは、この問題を、実際の生活の上で起きる事例を基にして、解き明かそうとします。
「もし、兄弟或いは姉妹が、着物もなくその日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたの誰かが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで、食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何ひとつ与えないならば、何の役にたつでしょう」と、言っています。教会の中のある兄弟、あるいは或る姉妹が、必要ぎりぎりの衣服や、食べ物にも不足して、教会の誰かに相談したとします。その困窮した人が、今、必要なのは、生きて行く上で、最低限必要な生活物資、衣服や食べ物です。ところが、往々にして、相談された信仰者は、口先だけで、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで、食べなさい」と言うだけで、本当に、その時必要な、身体に着る物も飢えを凌ぐようなものも、分け与えようとはしない事があるのです。

ヤコブは、「兄弟姉妹を憐れむ心が、行為となって現れなければ、ただ、同情するだけでは、意味が無い」と、教えているのです。そして、17節で、「信仰も、これと同じです。行いが伴わなければ、信仰は、それだけでは死んだものです」と、明確に断言しています。 然し、一方で、「私たちは、パウロが教える、『信仰義認論、即ち、人は信仰によってのみ救われ、義とされる』という御言葉を信じて、これに従ってきたのに、ヤコブは、これと、真反対のことを教えているのではないか」という考え方があることも事実です。

実際のところ、ヤコブは、決して、パウロの信仰義認論を非難しているのではありません。パウロの信仰義認論も、ヤコブの行為義認論も、共に正しい教えであり、真理であります。ただ、この真理の働きは、信仰者の置かれている異なる時期に対応しています。

まず、パウロの「信仰義認論」は、キリスト者の生活の中で、非常に初期の段階を扱っています。神に選ばれ、キリストに導かれ、信仰を持つに至るまでの期間のことを教えています。これに対し、ヤコブは、同じ信仰者の、もっと後の、成熟した段階を取り扱っています。即ち、既に信仰告白をしており、自分が罪を赦され、神の愛を頂き、永遠の命を生かされているキリスト者に対する教えです。既にそのキリスト者は、神に“義”とされていて、日々、聖化の道を歩まなければなりません。この聖化の道こそ、“行為義認”なのです。人間が救われる為には、誰一人、“業”即ち、“行い”によって救われる事は出来ませんが、同様に、キリスト者は、“業”即ち、“行い”を生み出す事無しには、救われる事は出来ないのです。

そして、ヤコブの最大の眼目は、このように、「パウロの“信仰義認論”を誤って理解する人々」の考えを正すことでした。パウロは、「神に招かれ、信仰告白に至るまでの道筋を示しているのであって、誰も、自力で神の赦しを獲得することは出来ない」ことを教えているのに対し、ヤコブは、「現に、信仰告白をしているキリスト者は、その行為によってキリスト教を証明しなければならない」と教えているのです。この意味で、信仰義認論も、行為義認論も、共に真理なのです。

アブラハムも、信仰があったからこそ、イサクを燔祭のいけにえにするという、業を行おうとしました。これらの事例は、究極的に、信仰と行いとが、相反するものではなく、それどころか、互いに、分離できないものであることを、証明しています。・・“信仰”なしに、“行動”へと動かされた人は、未だかつてありません。即ち、その人の信仰が、その人を、行動へと動かさないなら、それは、本物ではないのです。

私達は、神の招きによって、信仰をもつ事が出来ました。今日からの一週間、業を行うことによって、わたし達の信仰を証明する者でありたいと願っています。




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