説教

2015年4月19日

思いを一つにする
大坪章美


フィリピの信徒への手紙 2 章 1-11 節




今日お読み頂きました2:1節以下は、獄中から送られたもので、パウロが心を許し、愛し、心を開いているフィリピの信徒へ、語りかけているものです。

まず、「あなた方に、いくらかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに、慈しみや憐れみの心があるなら」という言葉は、フィリピの信徒達へ、「教会員同士が、一致するように」との願いを込めて語られたものです。そしてこの願いは、同じく、コリントの信徒達にも向けられたものでした。コリントの信徒への手紙二の最後の節、13:13には、パウロの祝福の祈りが記されています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」と祈っています。フィリピの信徒への手紙でも同様に、キリストによる励まし、神の愛による慰め、聖霊による交わりが求められています。恵みはキリストから、その恵みの現れとして父なる神から愛が与えられ、聖霊が交わりを作り出すのです。

実際、パウロは、この時、獄中にあって、自分の死を目前に感じながら、自分の身の行く末を口にすることなく、ただフィリピの集会が真の一致によって、貫かれることで、使徒である自分の喜びを満ち溢れさせてほしい、と願っています。パウロがここで記しています、「同じ思いとなり」、「思いを一つにして」、それによってわたしの喜びをみたして欲しい、と訴える“思い”というものは、単に、「信仰を共にする人間同士が、理解しあう」といった程度の話しではありません。パウロがここで言っています“思い”とは、頭脳や理性の働きよりももっと広い意味のもので、一人の人間としての全人格が、すべてのキリスト信徒にとって、共通の観点に立つ状態を示しています。

教会の集会の名に値する、真の交わりが実現すべきである、と考えるならば、互いに謙遜と愛によって、結ばれていなければなりません。3:18では、「何度も言ってきたし、今また、涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」と言っています。そして、「へりくだって、互いに相手を、自分よりも優れた者と考え、めいめい、自分の事だけでなく、他人の事にも、注意を払いなさい」と、言っています。そしてパウロが言う、「互いに、相手を、自分よりも優れた者と考える」為には、唯、“謙遜”があるだけであります。人は、相互に、相手に対して尊敬を持ち始めますと、それで、闘争は止んでしまいます。これが出来るのは、「神の恵みを信じるから」です。

6節以下は、キリストのことを歌った、原始キリスト教のキリスト賛歌が含まれています。イエス・キリストは、神と等しい存在であられたにも係わらず、その身分に固執されることなく、自ら望んで、世の諸人と同じ姿になられたことが、歌われています。

しかも、人間と同じ者になられただけでなく、キリストはさらに徹底して、己を低くされたのです。人間社会のどん底に降って、大多数の人々より低い所に身を置かれたのでした。「死に至るまで、それも、十字架の死に至るまで従順でした」と、歌われています。しかも、外からの圧力ではなく、心からの自発的服従を持って行われたのです。十字架上の刑死は、現代流に言えば、絞首台で吊るし首にされることに等しい、屈辱的な死でしたが、これこそ、キリスト・イエスの神への服従が全うされた証なのです。

キリスト・イエスは、神が、罪人としての人間が経験する、最も残酷な死を遂げられることによって、人間と神との和解を成し遂げられました。ここで、方向転換が起きました。キリスト・イエスが、この悲惨な死を遂げられた後、神は、主イエスを高く上げて、全ての名に優る名を、与えられたのでした。

ここに於いて、キリストの出来事が、世にとっての救いに外ならないことが顕わとなったのです。これから起こることは、全世界を挙げて、キリスト・イエスに額づくことが実現するのです。キリスト・イエスを高く挙げて「主」として立てられたのが、父なる神でありましたが故に、イエス・キリストへの服従は、同時に、父なる神に栄光を帰することに通じるのです。 



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