説教

2015年3月1日

キリストの愛
大坪章美


ローマの信徒への手紙 8 章 31-39 節




パウロが、31節を、疑問文で初めて、「では、これらのことについて、何と言ったら良いだろうか」と記した、「これらのこと」とは、「神のご計画に従って召されたわたしたちキリスト者が、既に栄光を与えられていることを自覚していること」を指しています。パウロは、「神が、ご計画に従って召されたわたしたちキリスト者が、既に栄光に与っている」ということは、要するに、何と表現したら良いだろうか?と、自問しているのです。そして、その問いの答えとして、「もし、神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか」と、言っています。現実の、わたしたちの歩む道には、相変わらず、災いや障害、死の恐怖や誘惑、が立ちはだかることでありましょう。しかし、神様ご自身がわたしたちの味方である、と宣言され、わたしたちを守り、支えて下さるのです。それは、「やがて、わたしたちの勝利に終わることが約束されていることに、他なりません」と、パウロは言っています。

そして、次に、パウロは、何故、これ程までに主なる神様が、わたしたちのような小さな存在に、味方して下さるのか、その明確な理由を語っています。32節です、「わたしたち、すべてのために、その御子をさえ惜しまず、死に渡された方は、御子と一緒に、全てのものを、わたしたちに、賜らないはずがありましょうか」と、述べています。
アブラハムは、神の命令によって、独り子イサクを神に捧げようとしましたが、神に止められました。アブラハムは、神の命令があったからこそ、独り子イサクを捧げることを決意したのです。

ところが、神様の場合は、唯一絶対の存在であられますから、何ものからも影響されません。誰からも強制されることはありません。その全能なる神様が、御自らのご意志で、御子の犠牲を遂行されたのです。神様が、御子の犠牲を惜しまれない筈はないのです。そして、そこから見えてくるものは、あたかも、神様は、御独り子よりも、私たち人間を、愛されたかのようにさえ思えるのです。「私たち全ての為に」とは、「私たち全ての人間の罪を、贖うため」という、意味です。

パウロは、茲に根拠を求めて断言します、「御子と一緒に、全てのものを、私達に賜らない筈がありましょうか」と言っています。主なる神様は、キリスト・イエスと共に、天と地、現在と未来、自然と救い、全ての恵みを私達人間に賜ったのである、と言っています。
パウロは問いかけています。35節です、「だれがキリストの愛から、私たちを引き離すことができましょう」と言っています。パウロは、わたしたちキリスト者が罪に定められない訳は、キリスト・イエスが、その死をもって、人間に対する一切の断罪を、ご自分の身に引き受けられたからである、と言っています。そして、「これこそ、キリスト・イエスの、わたしたち人間に対する“愛”に外ならない。」と言っているのです。

そしてパウロは、今までの問いに対して、明確な答えを示します。37節に、「これら、すべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています」と、確信を述べています。
「キリストの愛」によって、わたしたちキリスト者は、大勝利を得ることができるのです。「キリストの愛」は、厄除けのまじないなどではありません。艱難の只中にあって、わたしたちを守り、勝利させて下さるのです。「キリストの愛」は、わたしたちの生活が、どのような変化に遭ったとしても、微動だにしないのです。

最後にパウロは、如何なるものも、「キリストの愛」から、私たちを引き離すことは出来ない、と語っています。どのような人間の力でも、また、人間の力を超えた運命的な力、魔物的な力、どんな力も、「キリストの愛」から、わたしたちを引き離すことは、出来ないのです。「死も、命も」と言っています。「キリストの愛」で示される神の愛は、わたしたちが生きている今も、死んだ後も、わたしたちを捉えて離さないのです。
わたしたちは、「キリストの愛」に守られて、生きる幸せをかみしめたいと思うのです。




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