説教

2015年2月22日

私たちはいつも強い
大坪章美


コリントの信徒への手紙二 5 章 1-10 節




パウロは、「私たちの地上の住み家である幕屋が滅びても、神によって、建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」と記しています。私たちは、パウロが語っている“地上の幕屋”と、“天に用意されている建物”との違いに目を向けなければなりません。私たちの魂が住む地上の幕屋とは、仮の住居としての、死ぬべき肉体が与えられているに過ぎません。これに対して、「天に用意されている建物」とは、キリストを信じる者が、地上の生を終えると、その魂が住むことになる、「恒久的な永遠の住み家」を意味しています。

パウロは、この「新しい復活の体」が、天に於いて神により完成し、備えられていて、キリスト者が地上の生を終えて、召されるのを待っている、と考えているのです。ここでは、パウロがキリスト・イエスの再臨の時を待ち望んでいるのは、とりもなおさず、「新しい体への希望である」ことを、表しています。

パウロは更に、「わたしたちは、天から与えられる住み家を、上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって、苦しみ悶えています」と、言っています。キリストを信じる者も、地上の体で生きる生涯は、圧迫されていることを感じずにはいられません。何故ならば、地上の体は、罪と死の中にある体だからです。そして、3節で、この罪と死の体からの救いの時、が語られます。実際は、「キリスト者の地上の命が尽きた時」のことを言っています。「もしも、キリストを信じる者が、地上の住み家を脱ぎ捨てて、死んだとしても、裸のままではいないであろう」と言っています。死んだ後は、「不死と栄光の着物」を着せて下さるから、わたしたちは、死んでも、裸ではないのです。

キリスト者の、地上における死は、地上の幕屋としての体を脱ぎ捨てることですが、“救い”は、“体の救い”であって、体の変容でなければなりません。キリストを信じる者が死んだ後、「不死と栄光の着物」を着せられるのも、体の変容です。

パウロは、「キリスト者は、死の直後に、終りの時を待つことなく、復活の命にのみ込まれる」という主張に立っています。そして、このことを、神様が保証して下さっている、と言っています。神様は、私たちキリスト者に、あらかじめ、聖霊を与えることによって、死んだ後の、“体の変容”のための条件を作って下さった、と言うのです。そして6節で、「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしている限り、主から離れていることも知っています」と記しています。それは、「神が、信ずる者のうちに生き給い、彼らの内側に住み給う」という、確信があるからです。

パウロは、8節でも、6節の言葉を再び繰り返しています。「わたしたちは心強い」と言っています。続いて、「そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と、言うのです。パウロの信仰は、希望であり、期待であって、「キリストと共にある新しい存在」であることを、切望していたのです。このパウロの願望は、「主を見ること、主のもとに住むこと」により達成されるのです。

パウロは、9節で、「だから、体を住み家としていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と、記しています。地上に生きている時であっても、死んで、天から与えられる着物を着せられている時であっても、ただひたすら、主に喜ばれる者でありたいと、願っているのです。

そして、その主に喜ばれる者である為の鍵は、今、地上の幕屋として生きている私達の生き方にあります。その理由が、10節で語られています。「わたしたちは、皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい、体を住み家としていた時に行ったことに応じて、報いを受けなければならないからです」と記しています。裁きの座は、キリストの再臨の時の審判を意味します。そして、その裁きの座にあって、キリスト者は、信仰によって救われます。「主イエスはキリストである」という信仰によって、救われるのです。

わたしたちも、今日から始まる一週間、主に喜ばれる歩みをなしたいと願っています。



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