説教

2014年10月5日

なぜ、怖がるのか
大坪章美


マタイによる福音書 8 章 18-27 節



まさに、イエス様と弟子たち一行が、舟に乗り込もうとしていたその時、ある律法学者がイエス様に近づいてきて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ったというのです。

しかし、その真剣な真理の求めも、初めからのスタンス、立ち位置が違っていたのです。この律法学者は、既に自分が持っている学問体系を維持しながら、イエス様の存在をその中に組み入れようと試みるものでした。イエス様は、この律法学者に応えられました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には、枕する所もない」と、言われたのです。

律法学者に続いて、もう一人、イエス様に願いごとを申し上げた者がありました。弟子の一人がイエス様に、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」と、言ったというのです。イエス様のお答えは、厳しいものでした。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分達の死者を葬らせなさい」と、答えられたのです。

実際、その時、イエス様と共に、“真の命”が、到来していたのです。イエス様の召しがあるところでは、この世のすべての絆よりも大切な、神の主権が現わされているのです。その、召しに従うことが、生けるものすべてに求められる義務なのです。

23節には、「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」と、記されています。イエス様に従うということは、それだけで、楽な人生を歩むことが約束された訳ではありません。イエス様に従う者の道は、守られています。しかし、この保証は、悩みや苦しみに遭わせないというようなものではありません。様々な苦難を通して、神への信頼を高めてゆくのです。

舟が岸を離れてから、どれくらい経ったでしょう。「その時、湖に、激しい嵐が起こり、舟は波に呑まれそうになった」と、記されています。「激しい嵐が起きた」と記されていますのも、原文では、「大きな地震が起きた」と言う意味です。

地震によるにしろ、高い山からの突風によるにしろ、突如、湖面に起きた嵐によって、高い波に持ち上げられ、また落とされ、波を被る舟に乗っていた弟子たちにとって、舟を操るには、限界を超えていたのかも知れません。このように、乗り組んだ弟子たちの誰もが、死を覚悟するほどの騒ぎの時に、「イエス様は、眠っておられた」と言うのです。弟子たちは、たまりかねて、イエス様に近寄って起こし、「主よ、助けて下さい。溺れそうです」と言ったと記されています。

イエス様は、弟子たちに仰いました、「何故、怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われたのです。イエス様は、大波を被り、今にも沈みそうな舟の上で、まず、弟子たちに向かって、諭されたのです。「何故、怖がるのか」。直訳では、「何故、臆病なのか」という意味です。これは、文字通り、「恐れる必要が無いのに、恐れていること」を臆病と指摘されたのです。

イエス様が共に居られる限り、この世に、恐れることなど、何もないのです。それなのに、「なぜ、このことを信じ切れないのか」と、問われたのでした。そして、続けて仰いました、「信仰の薄い者たちよ」。イエス様は、「信仰の無いものよ」とは、言われませんでした。信仰はあるのですが、信じながらも、信じ切れない弟子たちであったのです。「信じ切る」者には、恐れはありません。

イエス様は、起き上がって、風と湖とをお叱りになりました。すると、「すっかり凪になった」と記されています。大きな地震が生じ、イエス様が風と湖とをお叱りになったら、次に、大きな凪が生じたのです。押し迫ってきた地震、嵐は、単なる自然現象ではなく、イエス様と弟子たちを呑みつくそうとする、破滅の勢力であったように思われます。

そして、この破滅の勢力は、イエス様の断固たる叱責によって、静まらざるを得なかったのでした。今週も、私たちは、共に居て下さるイエス様を信じて、小舟ならぬ大船に乗って、進むことが出来ます幸いを感謝したいと思うのです。



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