説教

2014年8月17日

揺るがぬ希望
大坪章美


ヘブライ人への手紙 10 章 19-25 節



19章18節には、「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」と記されています。著者は10節で「神の御心に基づいて、ただ一度、イエス・キリストの体が捧げられたことにより、私たちは、聖なる者とされたのです」、と言っています。これが、18節の言葉に繋がるのです、「キリストの体が、ただ一度捧げられたことにより、罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」と、結論を下したのです。

19節の著者の言葉、「それで」というのは、「罪を贖う為の供え物がもはや、必要ではない」のだから、「私達は、イエスの血によって、聖所に入れると、確信しています」という主張になっているのです。著者が、「垂れ幕、つまりご自分の肉を通って、新しい生きた道を私達の為に開いて下さった」と記していますように、イエス様が十字架の上で、ローマ兵の槍の穂先で脇腹を貫かれて、息を引き取られた、まさにその時、神殿の幕、この世と神の聖所とを隔てていた垂れ幕が、上から下まで裂けたのでした。イエス様が開いて下さった、「新しい生きた道」とは、栄光に溢れ、永遠に生きている、復活のキリスト・イエスのことなのです。

著者は、21節で、「私達には、神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、」と、前提条件を述べています。そして、この条件のもとに、三つの結論を導き出しています。まず第一は、22節にあります、「信頼しきって、真心から、神に近づこうではありませんか」と言っています。「体は清い水で洗われているのだから」というのは、洗礼を授けられる事によって、自らの罪の身に死んで、新しく復活した事を告げています。既に、洗礼を受けて、罪は赦されたのだから、堅い信仰をもって神に従おう、と勧告しているのです。

次に著者は、第二の結論を語ります。23節です、「約束して下さったのは、真実な方なのですから、公に言い表わした希望を、揺るがぬよう、しっかり保ちましょう」と、提言しています。信仰が拠って立つのは、ひたすら、「約束の上に」あるのです。約束を信じる者にしか、結果は齎されません。ですから、著者は言うのです、「約束して下さった神は、真実な方なのですから」、私たちが洗礼の時に告白した希望を、揺らぐことなく、保とうではないか、と言っています。

私たちが、洗礼を受ける時に告白した、“希望”は、揺らぐことの無い、確固たるもので、本来、揺らぐようなものではないのです。しかも、この“希望の確信”を持ち続けるということは、決して無理なことではありません。それは、私たち、自分の力に依るものでは無いからです。「約束された方の真実」に頼るからです。

そして、手紙の著者は、三つめの結論を、読者たちに伝えます。24節です、「互いに愛と善行に励むよう、心がけ、ある人たちの習慣に倣って、集会を怠ったりせず、むしろ、励まし合いましょう」と勧めています。
「ある人達の習慣に倣って、集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」という言葉は、教会の周囲の状況が差し迫っている事を察知して、信仰を表明する事に危険を感じて、集会に参加しない人々の事を指しています。こういう悪い習慣が蔓延しないようにするには、「励まし合う」事が勧められています。この“励まし合い”のなされる場所が集会の集まりなのです。

こうして、「キリスト・イエスという大祭司がおられるのですから」という前提で解き明かしてきた三つの結論が語られました。ここで語られたことを振り返ってみますと、第一に、「信頼し切って、真心から神に近づくこと」即ち、“信仰”、第二に、「公に言い表した希望を揺るぎなく保つ」即ち、“希望”、そして、第三に、「互いに、愛と善行に励む」即ち、“愛”を勧めているのです。パウロはコリント第一13:13節で、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」と解いていますが、ヘブライ人への手紙の著者も、「キリスト・イエスがご自分の肉を通って、至聖所、神の家へ入る新しい道を開いて下さったのだから、“信仰”により、神に近づき、揺るがぬ“希望”を保ち続け、“愛”と善行に励むように」と、勧めているのです。




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