説教

2014年8月3日

キリストの光
大坪章美


エフェソの信徒への手紙 5 章 6-20 節



冒頭、パウロは、「むなしい言葉に惑わされてはなりません。」と記しています。「むなしい言葉」とは、直前の3節以下で語られた、「性的な不道徳が、何でもない事のように主張すること」を指しています。パウロは、このように、預言者や使徒の警告を笑いものにして、神に従う者の良心を、堕落と滅亡に引き込んでゆく、悪魔のような誘惑者たちの嘘に警戒して、決して惑わされてはならない、と叫んでいるのです。

次にパウロは、エフェソの信徒たちに対して、以前の彼ら、即ち信仰が無かった時の異邦人の生活と、今の、キリストを主と仰ぐ生活とを比較して語り始めます。「あなたがたは以前には、暗闇でしたが、今は、主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」と勧告しています。このことは、主イエス・キリストが、霊的に死んでいた人々を、洗礼を授けることによって、もう一度再創造し、霊的に眠っている人々を目覚めさせ、また、罪の中に閉じ込められている人々を解放する光として現れる、と述べているのです。

そして、パウロは、「光の子として歩む」ということが何を意味するか、を語ります。それは、キリスト者は、神の新しい時代に住んでいる者たちであって、世界の光であるキリストに仕えている者達なのですから、光の子らしく振る舞わなければならないことを言っています。光は、その実を結ぶのです。闇の業、つまり肉の業は、永久に実を結ぶことなく、不毛なのです。

”光”は、照らすものであると同時に、“明るさ”です。「光に晒されて、明らかにされるもの」は、「照らし出される」と言うよりは、「光の中に移される」のです。パウロは、ここで、エフェソの信徒達に言っています、14節「それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすればキリストは、あなたを照らされる』」と告げています。

ここに引用された、“闇から光への変化”の思想は、パウロに、キリスト教徒の洗礼の際に歌われる讃美歌を思い出させて、パウロは、その中の2行を引用したのです。“洗礼”とは、「目を覚ますこと」であり、また、「照らし出すこと」であるからです。キリスト・イエスは“光”です。しかし、その光を見得るためには、人は変えられなければなりません。“目覚めていない状態”は、霊的に死んでいる状態であるからです。ですから、目覚めていない、即ち、洗礼を授けられていない人たちは、自分が失われた状態にあることにすら、気が付いていないのです。それに気が付くのは、“目覚めた瞬間”です。その時、初めて、自分が今まで死んでいた状態にあって、その“死”から救い出されたのだ、ということを悟るのです。そしてパウロは、17節で、「だから無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と言っています。ある人が道に迷い、あるいは躓き、また、ある人が衝突し、後退してしまう、ということは、一体、何に由来するのでしょうか。それは、わたし達が、この世の、肉的なものに心を奪われ、本当は、その為に努力しなければならない“神のご意志”を忘れてしまうからに他なりません。

パウロは、特に、「酒に酔い痴れてはなりません」と戒めています。現代もそうでしょうが、当時の人々も飲酒に耽っていました。当時のギリシャ世界では、豊穣と酒と酩酊の神、ディオニソスを祭る祭儀がありまして、酒に酔うことで、陶酔状態の中で神との交わりを求めることを常としていました。パウロはこれを、「御霊に満たされること」、「聖霊に全く捕らえられること」によって、霊的な喜びに浸るように、と勧めているのです。
初代教会は、いつも、礼拝を賛美から始めたのです。そして、真理の、素晴らしい、新しい世界が彼らの視野に入って来て、新しい感動が流れ込んできたのでした。そして、この感動は、霊的な感激となって現れました。この感激が感謝に繋がるのです。「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主、イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」と、パウロは締め括りました。そして、感謝は、わたしたちの救い主、主の御名によって、天の神に達するのです。



前のページへ戻る