説教

2014年7月27日

罪の根源とは
大坪章美


ヨハネによる福音書 5 章 41-47 節



今日の聖書個所の直前40節では、「それなのに、あなたたちは命を得るために、わたしのところへ来ようとしない」と仰っていました。しかし、こう言われたのは、ご自分が“栄誉”つまり人からの誉れをお受けになる為ではなかったのです。「わたしは、人からの誉れは受けない」と、明確に言われました。イエス様のお言葉は、言外に、「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたがた全ては、そうではない」と言われているのです。そして、「人からの栄誉を欲しがるあなたたちの内には、神への愛が無いことを、わたしは知っている」と、イエス様は仰るのです。この世の人々は、“人からの栄誉”を欲しがります。ですから、彼らは、神から遣わされて来る方を認めないのです。しかも、これは、一世紀初頭のユダヤ人社会だけのことではありません。現代でも、この世的に成功した人の回りには、取り巻きが大勢群がるのと同じことです。

イエス様は、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることが出来ようか」と仰っています。「人に認められたい、という願望持った者は、自ら、人の評価の奴隷になること」を指しています。そこには、絶えず心の緊張があり、不安と動揺の中にあって、本来あるべき自由はありません。「自分が、人々に認められたい」という自己愛を追求者は、自らが知らないうちに、「神の愛」を拒否しています。自分自身が偉大になろうとする者には、「神の愛」が届かないのです。

“人間の罪の根源”は、ここにあります。「自ら偉大になり、世の名声を追い求める魂」、これこそが、人間の罪の根源です。英雄崇拝は、罪を覆い隠すものです。イエス様は言われます、「唯一の神からの誉れは求めようとしないあなた達は、どうして信じることが出来ようか」。“神を信じる”という事は、“自己の名声に対する欲望を捨て去ること”なのです。幼な子が神の愛を受けるように、ユダヤ人達も、私達も、神の愛を受ける為には、「自ら名声を期待し、世の人の賞賛を求める」という生き方と、真っ向から戦わなければなりません。

イエス様は、45節で、「わたしが父に、あなたたちを訴えるなどと考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ」と、言われました。イエス様は、仰っています、「モーセの律法は、わたしについて書いてある。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じる筈だ」と言われました。申命記18:15節を見てみましょう。そこには、モーセの戒めが記されています、「あなたの神、主は、あなたたちの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは、彼に聞き従わなければならない」とあります。その預言者がイエス様の事なのですから、ユダヤ人達は、自己矛盾に陥っているとしか言えません。

ですから、イエス様は、「あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ」と仰ったのです。ユダヤ人たちは、モーセ律法に立脚しながら、律法が預言している“イエス様”を信じない、という袋小路に陥っているのです。イエス様は、この現実を、モーセ律法自身が、ユダヤ人の罪を告発しているのだ、と言われているのです。

そして、イエス様は、遂に、判決を下されます、47節です、「モーセの書いた事を信じないのであれば、どうしてわたしが語る事を信じることが出来ようか」と宣告されました。モーセ律法を信じているのであれば、イエス様の言葉を信じる筈である。逆に、イエス様の言葉を信じないということは、ユダヤ人達は、結局、モーセ律法も信じていない、と糾弾されたのです。

これによって、モーセを信じ、律法によって生きている、と誇っていたユダヤ人たちの偽りが、顕わにされたのです。それは、彼らユダヤ人たちの熱心は、神に対する熱心ではなくて、自分の名誉と利益を追求する為の熱心であったのです。ここに、“罪の根源”あります。私たちも、私たちの心の中に頭をもたげようとする、「自分の名誉と利益を追求する罪」との戦いに屈してはならないのです。



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