説教

2014年6月22日

何をしてほしいのか
大坪章美


マルコによる福音書 10章 46-52節



イエス様は、ガリラヤ地方における伝道の働きを終えられて南へ下り、いよいよ十字架への道をエルサレムに向かって歩み出されたのでした。

そして、その途上、3回目の受難予告がなされました。10:33節です。この、悲痛なイエス様の受難予告の後に、今回も又、弟子達の無理解が露わになります。ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟が進み出て、「先生、お願いすることを叶えて頂きたいのですが」と、イエス様に願ったのです。イエス様が、「何をしてほしいのか」と尋ねられますと、「栄光をお受けになる時、私共の1人をあなたの右に、もう1人を左に座らせて下さい」と、答えました。これに対して、イエス様は、「あなた方は、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることが出来るか」と尋ねられました。イエス様は、二人の愛する弟子に、ご自分と同じ苦しみを甘んじて受ける事ができるかどうかを、尋ねられたのでした。ヤコブとヨハネは、深く考える事も無く、「できます」と答えました。イエス様は、「然し、わたしの右や左に誰が座るかは、わたしのきめる事ではない。それは、定められた人々に許されるのだ」と答えられました。そして、イエス様は12人を呼び寄せて言われました、「あなた方の間で、偉くなりたい者は皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。弟子たちは、この真理に対して、目が見えない者でした。イエス様が癒して下さらない限り、すべての弟子は目が見えていないのです。

イエス様と弟子たち、それに大勢の群集は、ヨルダン川を渡って、エリコの町に着きました。翌日、一行がエリコを出発しようとしていた時、バルティマイという目の見えない物乞いが道端に座って通る人の施しを受けていました。バルティマイには、何事が起きているのか、分かりません。すると、一人の人が親切にも、「ナザレのイエスだ」とささやいてくれたのです。バルティマイはイエス様が近くにおられることを耳にして勇気が出てきました。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び始めたのです。長い間虐げられて生きてきて、初めて希望の光を感じたのでした。

この騒ぎを聞きつけたイエス様は、立ち止まられて、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。イエス様は、「主よ、憐れんでください」キリエ、エレイソンと叫ぶ声を耳にされると、立ち止まられるのです。そして、「助けを必要として、信じて呼び続ける人に」奇跡を起こされるのです。バルティマイは、目が見えない物乞いであったのに、・・いいえ、そうであったからこそ、イエス様と出会う事ができたのです。目が開いた多くの人々は、ここでは何の意味も持っていません。

バルティマイがイエス様の前に立ちますと、イエス様は、尋ねられました、「何をしてほしいのか」と言われたのです。この言葉は、今日、私達は、二度目に聞く言葉です。エリコの町に入る前に、イエス様は12人の弟子達の内、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネにも、同じ質問をされました。「何をしてほしいのか」と聞かれたのです。その時ヤコブとヨハネは、イエス様が栄光の王として来られる時、「自分達を、王座の右と左に座らせてください」と御国が実現した時の自分達の地位をお願いしたのでした。イエス様は、目の前に立っているバルティマイに対しても、同じように、「何をしてほしいのか」と尋ねられました。バルティマイは目が見えません。ただ、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエス様は、霊も肉も顧みて下さいます。バルティマイの為に、地上の生涯における最後の奇跡をなさいます。イエス様は、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。バルティマイは、目が見えるようになっていました。

バルティマイは、その後、どうしたでしょうか。52節の最後に記されています、「すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」とあります。“御後に従う”ことが大切です。主に従うことが求められています。私たちも、ただ主の救いを信じて、御後に従うものでありたいと願っています。




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