説教

2014年6月15日

逆転のしるし
大坪章美


コリントの信徒への手紙一 1章 26-30 節



パウロは、「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい」と語りかけています。パウロは、コリントの教会の信徒たちに、自分が召された時のことを思い起こさせることによって、神様がこの世に福音を伝えるために、ローマ皇帝や元老院議員のような高い地位の者を召したのではなく、コリントの信徒の殆んどを占めているような、雑多な解放奴隷、商人、奴隷たち、それに少数の裕福な者たちが混在する集会を召したことを伝えようとしたのです。

この思いもかけない人々の群れの“選び”は、終末論的な“逆転のしるし”を現わしております。「神は、知恵ある者に恥をかかせる為、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせる為、世の無力な者を選ばれました」と、パウロは言っています。そして、神様が選ばれた3種類の人々を記しています。それは、「無学な者」、「無力な者」、「無に等しい、つまり身分の卑しい者」と記されています。そして、それには目的があって、この地上での知恵ある者や、力ある者、地位のある者に、恥をかかせる為である、と言っています。

このように、“神の選び”は、世の中の期待を覆すものであって、まさに、終末論的な“逆転のしるし”なのです。そして、この“逆転のしるし”の目的は、何なのでしょうか。パウロは、1:29節で強調しています。「それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにする為です」と記しています。ここで用いられている「誰一人」とは、元の言葉を直訳しますと、「如何なる肉の人間も」という意味になります。地上の肉の人間は、聖なる神の前に立つことは出来ず、如何なる神の必要も満たすことは出来ない、ということは、旧約聖書に記されている通りなのです。

そのために、神様は、この世が蔑む人々から構成される教会共同体を創り直したのです。当時、「物」に過ぎなかった奴隷たちでさえ、キリストの福音は、真の人間として人格を認め、キリストの弟子として、また、それ以上に、神の息子、娘としたのです。これこそ、キリスト教の光栄でした。それは、卑下する者に自尊心を与え、生命なき者に永遠の命を与えました。人々からは無視されても、神様からは強く愛されていること、この世の人の目には無価値に見えていても、神様の目には、神の御独り子の死と引き換えにする程の尊いものであることを、それは教えたのでした。人を引き上げ、生き返らせるものは、全宇宙の中で、キリスト教をおいて、他に存在したためしは無いのです。

主なる神様が、あえて、この世の無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者、そして、現代の私たちを召して下さり、選んで下さったのは、「私達の誰一人、神の前で、誇る事が無いようにする為」でした。私達が、洗礼に導かれた時、私達に、何かの功績があったでしょうか。私たちは、神様に召され、選ばれるのが当然の人間であったでしょうか。神の選びは、百パーセント、神様の恵みに基くものであったのです。

この世で、無に等しい私たちが、イエス・キリストの十字架を信じることにより、「神の知恵」を与えられたのです。私たちは、神によって、「義なる者」と、宣告され、キリストによって「聖なる生き方」へ導かれ、キリストは、神が私たちを罪の状態から救い出すための、「贖い」となって下さったのです。パウロは、コリントの信徒たちが、そして私達が、救いに与るためのあらゆる宝を、キリスト・イエスにあって、与えられている事を踏まえ、31節の言葉を残しています。「誇る者は、主を誇れ」と書いてある通りになる為なのだ、と言っています。この言葉が書かれているのは、エレミヤ書9:22節以下です、そこには、「主は、こう言われる。知恵ある者はその知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めて、わたしを知ることを。わたしこそ主。」と記されています。

キリストの十字架を信じることは、自分を誇ることを完全に葬り去ることです。信じる者は、自分自身に目を向けるのではなく、キリストにある神の行為を仰ぎ見るのです。



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