説教

2014年3月9日

赦しの奇跡
大坪章美


テモテへの手紙一 1章 12-20節



13節で、パウロは、キリスト・イエスに捉えられる以前の自分を述懐しています。「以前、わたしは、神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」と、記しています。パウロは、このように、復活の主キリストに出会う前のパウロ自身の、できれば隠しておきたかった過去を、敢えて証することによって、主の赦しと憐れみが、どれほど大きいものであるか、ということを示そうとしているのです。そして、これらの罪を犯したのは、キリスト・イエスを信じる前に、知らずに行ったことだから、「キリストの憐れみを受けたのだ」と語ります。その憐れみとは、パウロがエルサレムからダマスコに向かう途上で起きた出来事です。

ところが、パウロには、キリスト・イエスが自分を赦し、伝道者として立てて下さる事実が、どうにも合点が行かず、理解できないことでした。イエス様のお名前を汚し、教会を迫害し、教会員を縛り上げ、鞭打たせたパウロに、イエス様は信頼を置かれたのです。この、パウロの人生に起きた奇跡を説明できるのは、ひとつのことしかありません。パウロは、この奇跡を、「私に憐れみが臨んだ。私はそれに値しないほどの、憐れみが臨んだ。」と、理解したのです。

15節では、「『キリスト・イエスは、罪人を救う為に世に来られた』という言葉は、真実であり、そのまま受け入れるに値します」と述べています。パウロは、過去の自分を顧みる事によって、そのことが良く分かっていたのです。彼がキリストの教会の迫害者として、気が狂ったかのように教会員を苦しめていた時に、キリストにおける神の愛が、どのようにして彼に注がれたか、を良く記憶していたのです。このような背景を持っていたからこそ、パウロは、15節の終わりで、自らの心の内を、露わにしました。そこには、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と書かれています。

然し、イエス様は、破滅的な裁きによって、迫害者パウロに臨まれたのではないのです。「裁き」どころか、裁かれて当然と思われるパウロに対して、“愛と憐れみ”をもって臨まれた、ということは、実に、“恵みの奇跡”以外の何ものでもありません。

そして、パウロは、自分自身が、復活のキリストの奇しき御業により、罪人からキリストの使徒へと召された理由について語り始めます。彼は、キリストに従う者になってから初めて、自らの、永年に亘るキリスト教徒迫害の罪の深さを、本当に悟りました。「キリストの福音に従う者を見つけ出して、誰かれなく、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する」という迫害が、どれほど、キリスト・イエスを悲しませ、神に反逆する罪であったかということを、悟ったのでした。

パウロは、自分が、イエス様によって罪赦され、義しい者とされた経験を思い返す時、「キリスト・イエスの限りない寛大さ」が、彼の上に示されたのは、これから後、イエス様を信じて、永遠の命に生きようとする全ての人々の模範となる為なのだ、と感じたのでした。パウロは、今日の聖書個所の直前、9節以下で、律法の要求を正しく用いるための、「罪のカタログ」を記しました。それは、十戒の違反者を列挙しています。

このような、罪のカタログに記されているような罪を犯してやまない者が、神様の御怒りを受けることは確実なことです。然し、これらの罪人の罪がどれほど深いものであっても、望みを失う必要は無いのだ、とパウロは言っています。そして、それは、「イエス・キリストは、罪人を救うために、この世に来られたからである」と言うのです。罪人が誰であれ、キリスト・イエスを受けいれさえすれば、神の赦しが、その人に与えられるのです。迫害者にして罪人パウロが救われた事実は、たとえ、どのような罪を犯した人間であろうとも、キリスト・イエスの憐れみが届かないほど、自らを否定する必要はない、ということに対する、生ける証となったのです。パウロを救い給うた神は、私達の時代も含めて、全ての時代を通じて、世々、神でいらせられます。そして、罪深い私共に、「赦しの奇跡」を施して下さいました。今も、私どもを愛し、救いの道を歩ませて下さる神に、心から感謝したいのです。



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