説教

2014年3月2日

永遠に渇かない水・聖霊
大坪章美


ヨハネによる福音書 4章 5-15節



イエス様は、この時、シカルというサマリアの町におられました。シカルという町はサマリア地方にあって、ゲリジム山の直ぐ北側に位置しています。

イエス様が、何故、その時、シカルの町におられたのか、についてはイエス様が、洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を造って、洗礼を授けておられるということがユダヤ人の最高指導者と見なされていたファリサイ派の人々の耳にも入ったのです。この、ファリサイ派の人々の、イエス様の洗礼の成功に対する怒りと嫉妬が、イエス様に、ユダヤを去って、ガリラヤへ避難する決意を固めさせたのでした。

4節には、「然し、サマリアを通らねばならなかった」と、記されています。ここで、用いられております、「通らねばならなかった」という言葉は、特殊な言葉で、「神様による必然が働いている」という事を意味しております。この旅で、イエス様は、サマリアの女や、他のサマリア人達と顔を合わせて、「サマリア人も、ユダヤ人も、共に、霊と真とをもって礼拝する時が来る」ということを知らせる目的を持っておられたのです。

イエス様は、旅に疲れを覚えられて、そのまま、ヤコブの井戸の側に座っておられました。そこへ、シカルに住むサマリアの女が、井戸の水を汲むためにやって来たというのです。このサマリアの女にイエス様は、声をかけられました。「水を飲ませてください」と言われたのです。しかし、この、イエス様からの突然の要求は、女性をひどく驚かせました。ユダヤ人がサマリアの女性に好意を求めることなど、到底考えられることではなかったのです。イエス様は、言われました、「もし、あなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに、生きた水を与えたことであろう」と、答えられたのです。サマリアの女性は、「イエス様が、『生きた水』を与える」と、話されたのが、不思議でなりませんでした。女性には、依然として、ヤコブの井戸の井戸水のことしか頭になかったのです。

イエス様は、この女性の注意を、ヤコブの井戸からそらして、言われました、「この水を飲む者は、だれでも、また渇く。しかし、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と、仰ったのです。旧約の預言者第二イザヤも、主が、イスラエルの民のために、「岩から水を流れ出させる」と、預言しています。この、水こそ、イエス様が言われた、「わたしが与える水は、その人の内で、泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」というお言葉の、「決して、渇くことの無い、永遠の命に至る水」でした。

これは、女性が理解できなかったような、「ヤコブの井戸」の水とは、根本的に異なるものでした。ヤコブの井戸の水は、飲んでも、飲んでも、又すぐに渇きます。地の下から滲み出てはくるのでしょうが、湧き出て、流れ出して、迸るような、勢いはありません。

イエス様は、この、飲む人に永遠の命を与える、尽きることの無い祝福の泉についてこの女性に話されたのですが、15節では、未だ、明確には分かっていない彼女の言葉があります。「主よ、渇くことが無いように、又ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい」と、イエス様にお願いしています。「又ここに、汲みに来なくてもいいように」という言葉は、彼女が未だ、きちんと理解していないことを表しています。

この、「決して渇くことの無い水」について、イエス様は、7:38節で話されています。「わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から、生きた水が川となって流れ出るようになる」。39節には、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」と、記されています。イエス様が、サマリアの女に話された、「その人の内で、泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われた、「活ける水」は、聖霊のことであったのです。そして、私たちは、この、「永遠の命に至る水」・“聖霊”を、洗礼を授けられた時から、変わることなく、私たちの内に持っていることを感謝したいのです。





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