説教

2014年1月26日

御業の完成
大坪章美


フィリピの信徒への手紙 1章 3-11節



パウロは、3節以降で、彼らのために取り成しの祈りを捧げていることを告げています。そこには、「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るたびに、いつも喜びをもって祈っています」と、記されています。

パウロは、喜ぶことなしには、フィリピの信徒たちのために祈ることは出来ませんでした。フィリピの教会は、パウロが理想とする教会に、他のどの教会よりも近かったのです。パウロは、自らがフィリピの信徒たちの為に祈る度に、「いつも、喜びをもって祈っている」その理由は、「彼らが、福音に与っているから」であると、言っています。「最初の日から、今に至るまでの福音」こそ、重要なのです。獄中のパウロのために齎された見舞いの贈り物も、フィリピの信徒たちが御言葉を受け入れたその日から、伝道の意欲を見せたことも、リディアがパウロを自分の家に迎え入れて、家庭集会を開いたことも、すべては、「福音に与っていた」ことの結果であり、その実りに過ぎません。

フィリピの人たちは、直ちに福音の交わりに入る者になり、従って、救いに与る者になりました。そして、この福音の絶対の威力は、パウロが福音をもたらした最初の日から今に至るまで、変わることなく実証され続けていて、パウロは、この事実を目の前にして、4節の、「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」と、書き記したのでした。

そしてパウロは、更に深く、神の救いの約束の確信を、フィリピの信徒たちに告げ知らせます。6節です、「あなたがたの中で、善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています」と、述べています。「あなたがたの為に善き業を始められた方」とは、それは、神が始められたのです。そして、このことは、フィリピの信徒たちからも、パウロからも、一切の誇りや自尊心を奪ってしまいます。然しまた、それは、一切の無気力や、一切の不安や、心配をも奪い去るのです。

なぜなら、ここには、神の真剣さ、神の真実が問われているからです。フィリピの人たちがどんな態度を取ったところで、神の真剣さ、神の真実は、疑問の余地なく、堅く立っているからです。このことは、単にフィリピの信徒たちの為に始められたこの善き業が全うされるのは、フィリピの信徒達の為だけには限らないことを意味します。この世の歴史の中に再び来られて、新しい創造をなさる、そのキリストの日に向かって、救いの御業は、全うされるのです。この神の御業は、私たちを駆り立てて、すべての諦めからも救い出し、希望の中に追い込まずにはおかないものなのです。
パウロは、フィリピの信徒達のことを思い起こす度に、神に感謝していると記しています。そしてその感謝は、「神が、キリストの日に向かって、救いの御業を完成して下さることを確信しているから」と言っています。

パウロは、「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことを、どれ程思って居るかは、神が証しして下さいます」と、自分のフィリピの信徒達に対する愛の心を、神を証人として誓っているのです。
パウロの心は、もはやキリストの愛に占められて、キリストの愛がパウロを動かし、駆り立てているのです。パウロの内には、キリストが生きておられるのです。

最後にパウロは、フィリピの信徒たちのために祈ります、「何が大切であるかを知り、見抜く力を身に着けて、フィリピの人々の愛がますます豊かになるように」。この、パウロの祈りのように、キリスト信徒が、何が大切であるか、の真理を知る者とされた時、驚くべきことが起こるのです。

やがて来る、キリスト・イエスの日に、罪ある人間が様々な過ちや、欠点を持ったまま、青天白日の身とされるのです。そして、この青天白日の身は、キリスト信徒達の精進と努力の結果ではありません。それを成し遂げて下さるのは、キリスト・イエスであって、キリスト者の身に、新しい命の実を成長させ、実を結ばせて下さるのです。キリスト信徒達の中で、善い業を始められた方が、その御業を完成して下さる時です。



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