説教

2014年1月12日

信じる者全ての主
大坪章美


使徒言行録 10章 44-48節



パウロは、コルネリウスと親類、友人たちの前で、口を開いて、イエス・キリストの福音を語り始めます。まず話したことが、「神は、人を分け隔てなさらないことが良く分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と語っています。

そして、このことをペトロは、改めて、コルネリウスと会う前日の真昼時、不思議な幻の中で、イエス・キリストの声と共に、教えられたのでした。「神の前には、民族、素性は問題ではなく、社会的地位、そして宗教の前歴も問題ではなく、信仰と正義だけが必要なことである」ということなのです。

ペトロは、説教の中で言っています、「神が、イエス・キリストによって平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送って下さった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう」と述べて、その後に、わざわざ、「この方こそ、全ての人の主です」と付け加えています。「告げ知らせて」と翻訳されている元の言葉は、エウアンゲリゾー即ち、「福音を述べ伝える」という言葉なのです。直訳をしますと、「神が、イエス・キリストを通して平和の福音をイスラエルの子らに告げ知らせた御言葉をあなたがたはご存知でしょう。このイエス・キリストは全ての人の主です」という意味になります。

ここには、「イエス・キリストが、被造物すべての創造主なる神と共に、統治するために、天に昇られた」ということは、“すべての人の救いの為である”ということが、当然のこととして前提になっているのです。
ペトロは、説教を続けます、このメシアである「キリスト・イエスを、人々は木に架けて殺してしまいました」と、語ります。殺す方法は、幾つもあったでしょうに、あらゆる刑の中で最も残酷な方法と言われた、十字架に架けて殺してしまったのです。ユダヤの人々、ユダヤ教の指導者たちは、神の子イエス・キリストを、「神に呪われた者」として、処刑したかったのです。

この、ユダヤ教の指導者達の思惑通りになりました。少なくとも、表面上はそのように見えました。然し、キリスト・イエスには、もともと死刑にされる罪も、神から呪われる理由もありません。真実は、全く逆でした。神様が呪っておられたのは、人間が犯してきた測り知れない罪、私達が犯す罪、神様に背き、蔑ろにする罪でした。イエス様が十字架に架かられたのは、御自分の罪ではなく、これら、底知れぬ深い闇を伴う人間の罪への呪いを、ご自身が引き受けるためでした。

イエス様が実行された“身代わりの死”は、成功したのでしょうか。その答えが40節に記されています、「神は、このイエスを、3日目に復活させ、人々の前に現わして下さいました」と、ペトロは言っています。このように、確かにイエス様は死なれ、そして、確かにイエス様は復活されました。このことは、主なる神様が、イエス様の身代わりの死によって、人間の計り知れない深い罪を赦して下さったことを表しています。イエス様の復活は、イエス様の贖いの死が神に認められ、私達人間が、もはや、罪のために、神に呪われることはないのだ、ということの決定的な証拠なのです。

イエス様の罪の赦しを受けられるのは、人間の全てではありません。確かに、イエス様が十字架上で死なれたのは、全ての人の罪を贖うためでした。然し、イエス様を、救い主と、信じる者だけが、救いに与り、永遠の命を授けられるのです。「イエス様を信じること」が、「イエス様と私たちが、一体に結び合わされていると、神から見られること」なのです。このように、イエス・キリストを信じる者だけが、その信仰によって、イエス・キリストと共に、復活させられるのです。

このように、ペトロがキリストの福音を伝える説教を、コルネリウスとその親類や友人にしていたところ、この御言葉を聞いていたコルネリウスたち、異邦人の上に、聖霊が降ったと、記されています。
ペトロが初めて理解した、34節の言葉、「神は、人を分け隔てなさらないことが、良くわかりました」という洞察が、今、異邦人コルネリウスたちの上に、神の霊が注がれることによって、証明されたのです。





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