説教

2013年10月13日

信仰によって義とされる
大坪章美


ガラテヤの信徒への手紙 5章 1-12節




パウロは、5章1節、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを、自由の身にして下さったのです」と述べました。パウロが言う、「この自由」という言葉が何を意味するか、は前のページにあります、4章21節からの話で説明されます。「この自由」とは、「自由の女サラから生まれたイサクと同じように、わたしたち信徒も、自由をもった約束の子である」ということを意味しています。

続いてパウロが記している、「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に、二度と繋がれてはなりません」という言葉の意味するところは、ガラテヤの信徒たちに近づいてきたユダヤ主義者たちが、最後に残された決定的な一歩として強烈に進めようと企てていた、「ガラテヤの信徒たちに、割礼を施す」という企みに乗せられてはならない、ということでした。それこそ、キリストの福音から転落し、奴隷の軛に繋がれる行為に他ならなかったからです。その理由は3節で述べられています。「割礼を受ける人全てに、もう一度はっきり言います。そういう人は、律法全体を行う義務があるのです。」と指摘しています。主イエスによる恵みの支配と、律法による宗教的支配とは、本質的に相容れないからなのです。律法の代表例である割礼を受けて、それによって神に義とされることを求める者は、割礼のみならず、律法全体の支配下に置かれて、律法の全てを遵守する義務を負う者となってしまうからなのです。

パウロは、わたしたちの望む義、“正しさ”は、律法によるのではなく、“信仰によって”実現すると言っているのです。「わたしたちの望む義」とは、審判者である神の前に立ち得ることです。審判の場でも、正しい者と認められ、永遠の命を生きるようになるのです。そして、この、「わたしたちの望む義」が実現するためには、ただ、“信仰”があればよいのです。その信仰とは、「主イエスは、私の罪のために死んで下さった」ということを、信じることなのです。これが、信仰であり、“義”を受け取る唯一の姿勢なのです。

そして、ここで、パウロは、自分自身に対して投げかけられている非難に、敢然と立ち向かいます。パウロは、使徒言行録16:3節に記されていますように、愛弟子テモテに割礼を受けさせたことがありました。ガラテヤの信徒たちを律法主義者にしようと企てるユダヤ人たちは、この事実をことさらにあげつらって、「パウロだって、時と場合によっては、やはり、割礼重視の立場を取ることがあるではないか」という主張をしていたのです。実際、あの時のパウロは、割礼が魂の救いに無くてはならない、と考えたのではなく、テモテ自身の伝道の働きの上で妨げとなる要素を取り除こうとしたにすぎなかったのです。その証拠に、パウロは、彼らユダヤ主義者に、痛烈な言葉を返します。11節です、「兄弟たち、このわたしが今なお、割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのはなぜですか」と反論しています。

パウロは、この割礼論争の結びとして、実に厳しい言葉を発します。12節です、「あなたがた、ガラテヤの信徒をかき乱す者たち、つまりユダヤ主義者たちは、いっそのこと、自ら、去勢してしまえば良い。」と言っています。「ユダヤ主義者が、それほど、割礼を救いの根拠としてこだわるのであれば、いっそのこと、去勢手術を受けた方がもっと、効果があるだろう」と、締め括ったのです。これは、実に激しい言葉です。ユダヤ主義者にとっては、前代未聞の冒涜の言葉でありました。と、申しますのは、申命記23:2節に、「去勢された者は、イスラエルの民から追放される」と記してあることを、パウロも、ユダヤ主義者たちも、良く知っていたからです。

これほど激しい言葉を用いてまで、パウロがユダヤ主義者の割礼の勧めを退けたのは、割礼や律法の中には、人間の、罪からの救いが無いことが明らかだからなのです。人が救われるのは、「ただ、神の恵み」、信仰に徹すること、つまり、「イエス・キリストの十字架上の死は、わたしの罪のためであった」と、信じることによるのです。





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