説教

2013年9月22日

わたしだ
三枝 禮三


イザヤ書 46章 3-4節




〈イザヤ46章 3節〉「わたしに、よく聞け」と主は言われます。「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。」

〈申命記 1;31〉でもそれを確認するようにモーセが言っています。「荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を負うように、あなたを背負ってくださったのを見た」。「見た」と言っています。これは、ヨルダン川の東岸に達した民に、モーセが最後の説教で真っ先に確認している、これまで見て経験してきた救いの歴史の事実です。見て経験してきたその歴史の事実に基づいて、イザヤは今や単にその過去だけでなく、更に現在も将来も、否、永遠に至るまで民を担い給う、変わることなき神の臨在、神の現臨を告げるのであります。

〈4節〉「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪となるまで、背負って行こう。/わたしはあなたたちを造った。/わたしが担い、背負い、救い出す。」ある学者は、こう訳しています。「あなたが老年になるまで、わたしは担う者。白髪になるまで、わたしは担おう。/わたしは担ってきた。そしてわたしは担おう。/わたしは引きずって行き、救おう。」

「わたしが担ってきたし、担うであろう」だけでも過去から将来まで、担うことが大惨事を貫いて持続することを示していますが、その後の「わたしは引きずって行き、救おう」とはどういうことでしょう。それは歴史が進行して終末に達するまでには担われている者が背いて落ちるということも起こり得る。それをもなお見棄てずに赦し、最後まで担いきるということでしょう。神の国まで担いきるということでしょう。

しかし、それより何よりここで驚かされるのは他でもありません。呼びかけ給う神が主語であることを示す「わたし」が原典ではこの節だけで六回も繰り返されることです。これはただごとではありません。神の「わたしが」がこんなにも繰り返されているのは、いったい何故か。それは民が頑なで、過去だけでなく現在も将来も繰り返し主に背いて自己中心主義の罪に落ちるからでしょう。復活された主イエスが、ペテロに「わたしを愛するか」と問いかけてペテロが「はい」と答えると「わたしの羊を養え」と、同じことを三度も繰り返されます。それは、主イエスを三度も知らないと否認したペテロの罪すら赦し給うことをペテロに確認して下さるためでしょう。ここでも神が「わたしが」を六度も繰り返していられるのは、繰り返し背いては落ちる民を引きずって行ってでも必ず救い出すという、これは主の決意の確かさでしょう。堅忍不抜の主の約束の確認でしょう。

ガリラヤ湖で嵐に行き悩む弟子たちの舟に主イエスが湖上を歩いてやってきた出来事をマタイ、マルコ同様ヨハネも伝えています。しかし、一番短く簡潔です。湖が荒れ始めたこと、イエスが湖上を歩いて近づいて
来たこと、弟子たちが恐れたこと、それだけです。マタイやマルコが書いているその前後のことはもちろん、弟子たちがイエスを幽霊だと思って恐れたことすら省いています。それはただ一点を強調するためでしょう。その一点とは何か?「わたしだ。恐れることはない」という一言です。「わたしだ」エゴーエイミー。先ほど読んだイザヤ書46章4 節の「わたしである」がギリシャ語訳の旧約聖書では同じ「エゴーエイミー」で出てきます。そして、これは神が御自身を顕されるときにだけ聖書で用いられる特別な言葉とされています。ですから、この主イエスの「わたしだ」は、あの六回も繰り返された神の圧倒的な「わたしだ」の再現に他なりません。

嵐に行き悩む舟の中で主イエスを見ても幽霊だと怖じ恐れる弟子たちに「わたしだ」と迫って来て下さった主。「ここにいるのは幽霊でも幻影でもない。わたしだ。」「わたしが、ここに、いる。」そう言って、嵐を鎮め給う主。怖じ恐れる私どもの不信抑を打ち砕いてくれるのは、「わたしだ」という圧倒的な一言による主の現臨をおいて他にはありません。








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