説教

2013年9月15日

新しい掟
大坪章美


ヨハネによる福音書 15章 11-17節



時は紀元30年の春も浅いニサンの月の13日、夕暮れ時にイエス様と弟子たちとは、エルサレム市内の、とある場所で夕食の席に着かれていました。そして、弟子たちのうちの一人が、ご自分を裏切ろうとしているとの予告をされました。弟子のユダがイエス様からパン切れを受け取ると直ぐに出て行きました。「夜であった」と記されています。扉の外からの風とは異なる寒さが感じられます。イエス様は、心を許した11人を相手に、語り始められました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と語りだされます。

大切なことは、「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と言われていることです。イエス様に繋がっている弟子や人々は、神様が手入れをして下さり、いよいよ豊かに実を結ぶ、といわれている事です。イエス様に繋がっているということは、現状維持には止まらないという事です。それは、神様のお手入れによって大きな実を結ぶ、良い循環を描くようになるということが示されているのです。

15:9節には、イエス様が、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛に留まりなさい」と仰ったことが記されています。では、どうすれば、イエス様の愛に留まることができるのでしょうか。イエス様は、その答えを、続く10節で語っておられます。「あなた方も、わたしの掟を守るなら、わたしの愛に留まっていることになる」と言われました。“イエス様の愛に留まる”ということは、“イエス様の掟を守ること”であると教えて下さっているのです。そして、イエス様の掟の意味を、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と仰ったのです。次にイエス様は、私たち信徒のことを、“友”と呼ぶ、という話を始められます。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない」と仰いました。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われましたが、“愛”は、互いに、両者が対等であってはじめて成立するものです。愛し、また、愛される為には、両者の自由が前提になるのです。

そして、この“自由”を阻むのが、“人間の罪”であります。罪の贖い、罪の赦しは、“自由”を再び獲得することを意味します。イエス様が、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたは、わたしの友である。もはや、わたしは、あなたがたを僕とは呼ばない」と仰ったのは、とりもなおさず、「わたしの命じることを行う者の罪は、わたしが赦し、その者をわたしが贖う」と言われているのです。

このように、弟子たちは、イエス様から、“わたしの友”と呼ばれるようになりました。そして、兄弟姉妹同志が、また、イエス様との間で、互いに愛し合うことができるようにされました。しかし、ここで、イエス様は、弟子たちとの間の友人関係を、更に正確に位置づけられるのです。16節で、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と仰っています。同じ“友人”であるとは言え、その基本は、イエス様が、一方的に選んで下さったことによる友人関係なのです。

イエス様は、弟子たちを、そして私たちを、一方的に選んだと言われます。そして、「わたしの愛に留まりなさい。わたしの掟をまもるなら、あなたがたは、わたしの愛に留まっている」と仰いました。これが、“新しい掟”なのです。そして、その掟は、「互いに愛し合いなさい」というイエス様のご命令なのです。このご命令が果たされるように、イエス様は、弟子たちを、そして私たちを、“友”とまで呼んで下さり、自由を与えて下さっているのです。イエス様は、弟子たちのために、私たちのために、幾重にも、愛を示して下さっています。今度は、私たちが、イエス様のご愛にお答えする番だと思うのです。



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