説教

2013年8月25日

裁きから恵みへ
大坪章美


ヨハネによる福音書 4章 27-38節




イエス様はユダヤから、再びガリラヤへ戻られることになり、近道のサマリア経由の道を選ばれました。
そして、シカルという町にやって来られました。ここに、ヤコブの井戸があって、イエス様は旅に疲れて、そのまま井戸の側に腰を下ろされました。焼き付ける太陽の光と、旅の疲れとで渇きを覚えられたイエス様は、丁度水を汲みに来たサマリアの女性に、水を飲ませてくれるように願われたのでした。

しかし、イエス様は、ご自身が喉の渇きを覚えて、サマリアの女性に水を求めて、願った筈なのに、結局は、このサマリアの女性が、ユダヤ人であるイエス様に水を求める、という立場の逆転が起きるのです。13節以下で、イエス様が言われた、「この水を飲む者は、誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」という言葉に答えて、その女性は、「主よ、渇くことが無いように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい」と願ったのでした。この女性との、隔ての壁を打ち破る為に、イエス様はこの女性に、「夫をここに、呼んで来るように」と、命令されました。女性が答えて、「わたしには、夫はいません」と答えると、イエス様はそれを待っておられたかのように、女性が、これまでに五人の夫と別れ、今一緒にいるのは夫ではないのだから、「夫はいません」と答えたのは事実、その通りだ、と解説されたのです。サマリアの女性は、イエス様の教えの深さに打たれて、自分が、何をしに井戸へ来たのかも忘れてしまって、持ってきた水がめをそこに置いたまま、町に走って帰って、人々に言ったのでした、「わたしが行ったことを全て、言い当てた人がいます。もしかしたら、この預言者は、メシアかも知れません。」と呼びかけたのです。この女性の言葉を聞いて、同じく好奇心に駆られたサマリアの住人たちは、続々とイエス様の周りに集まってきました。

イエス様にとりましては、このサマリアの女性との出会いが、どれ程深い意味を持っているかを、弟子たちに示すことが重要でありました。イエス様は、この女性を救ったとき、ご自分を遣わされた方のご意志を行ったのでした。御霊と真理とにおいて女性を助けたことによって、神の御業を成し遂げられたのです。このサマリアの女性は、それまでの生涯の中で、愛し、愛され、或いは信頼し、信頼される人間関係を築いてくることができませんでした。自分の過去の過ちを冷ややかに見る町の人々を恐れて、人々の目を避けるようにして暮らしてきました。然し、この女性は、今や、イエス様が与える命の水を飲んで、罪を赦され、その大きな恵みの中を歩む者に人生を変えられたのです。

イエス様は、目を上げて、ご自分の許へと、続々と集まってくるサマリアの町の人々の姿に目を留められました。そして、弟子たちに、「あなたがたは、『刈り入れまで、まだ4か月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて、畑を見るがよい。色づいて、刈り入れを待っている。」と仰ったのです。

イエス様は、仰っています、「あなたがたが、自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」と。実際、今、イエス様をメシアと認めて、サマリアの町から大勢の人々がイエス様の許に集まって来ています。弟子たちは、これを受け入れて、洗礼を授けるのみなのです。これほど大きな神の恵みを目の前にして、なお理解できない弟子たち、そして、日々、恵みの内に生かされていることを、当たり前のように考え、あたかも、自分の力で生きているかのように錯覚する私たち。このような私達の為に、イエス様は十字架に架かって下さり、私達自身が負うべき運命にあった裁きの苦しみを、担って下さいました。神の怒りの裁きが降った時、私達の罪を一身に受けて、贖って下さったのがイエス様でした。神の裁きによって、滅ぼされるべき身であった私たちが贖われ、罪を赦されただけでなく、永遠の命を与えられる恵みに与ったのです。こうして、私達への裁きの時が、イエス様によって、恵みの時に変えられたのです。




前のページへ戻る