説教

2013年7月28日

約束が果たされる日
大坪章美


ヘブライ人への手紙 9章 23-28節




ヘブライ人への手紙は、紀元80年代に、恐らくはローマにいるユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものと言われています。この頃、ローマにいるユダヤ人キリスト者が属する教会が、迫害の危機に見舞われていたようなのです。彼らは、迫害の危険に怯え、そのうえ、イエス様が地上に来られた時に低い僕の姿であったことが理解できず、また、約束された再臨の日の救いの完成が遅れていることにも失望して、自らの信仰にも危機を迎えていたのでした。

 手紙の著者は、このような中で、先立ち行かれるイエス・キリストをしっかり見つめつつ、望みと忍耐をもって、前進するように、との勧めをしています。
 9:23節で著者が語っております、「天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならない。」という言葉の中の、「天にあるもの」とは、8:2節に記されています、「人間ではなく、主がお建てになった聖所、また真の幕屋」の事を指しています。従いまして、著者が語る、「天にあるものの写し」とは、「天にある真の幕屋を模ったもの」でしかないのです。それは具体的には地上の幕屋の聖所と至聖所とを意味します。そして著者は、「天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならない」、つまり地上の幕屋にある聖所、至聖所は、モーセが若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体に振りかけ、また、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけたように、若い雄牛と雄山羊の血によって清められなければならないと言っているのです。

 そして「然し、天にあるもの自体は、これらよりも勝った犠牲によって清められねばなりません」と記しています。そこでは、雄牛や雄山羊の血を用いる訳にはいかない、と言うのです。これらの地上的な手段は、天においては何の役にも立たないのです。そこでは天上の存在である、神の御子の血が必要であったのです。
 では、どうして、天にあるものについて、清めが必要なのでしょうか。・・確かに、天の幕屋に、汚れはありません。しかし、それは、私たち罪人に開かれ、罪人が入る、私たちの幕屋にならなければならないのです。・・ですから、それ故に、この天にあるものも、清めを必要とするのです。それは、汚れたものが清くなるための清めではありません天にある幕屋については、それが、私達罪人に開かれる為に、御子イエス・キリストの血によって清められた、と言われているのです。
著者は、キリスト・イエスが、世の終りに、ただ一度、ご自身を人間の罪を贖う犠牲として捧げるために、十字架の死を遂げられた、と語っています。

 そして、私達人間も、ただ一度だけ、死ぬことが定められている、と語ります。人間は、ただ一度の“死”を迎えますと、神の裁きが来る前に仲裁をするような何ものも、期待できません。この手紙の著者は、同じ終極性を、イエス・キリストの御業に関しても見ているのです。著者は、「キリストも、多くの人の罪を負う為に、唯一度、身を捧げられた後、二度目は、罪を負う為ではなく、ご自分を待ち望んでいる人々に救いをもたらす為に、現れて下さるのです。」と記しています。
 そして、私達人間の、一回限りの“死”の次のステージとして、「裁きを受ける事が定まっている」と、著者は記しています。又同様に著者は、イエス・キリストも、多くの人の罪を贖う為に唯一度、身を捧げられた後、次のステージは、「ご自分を待望している人達に、救いをもたらすために現れて下さる」と記しています。

 普通の人間の“死”は、「裁きへと赴くこと」であります。しかし、キリスト・イエスの“死”は、「裁きからの救出」を意味しています。キリスト・イエスが再び来られるのは、「主イエスが来られることを待望している者を、裁きから救い出し、彼らに救いを実現するため」なのです。主を信じる者の罪は、一回限り主によって弁済され、そしてそれは、永遠に保たれる、と
いうことが約束されているからです。最後の審判は、私達キリスト者にとっては、救いの完成の時なのです。
 私たちは、何者も、恐れることはありません。主の再び来られる日を、待ち望む者となりましょう。





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