説教

2013年7月21日

兄弟を愛する人は
大坪章美


ヨハネの手紙一 4章 16b-21節




ヨハネの手紙第一が書かれた目的は、異端の教師達への反論です。異端の教師とは、グノーシス思想家たちのことを指しています。この異端思想の著しい特徴は、教会のキリスト告白を否定するものです。彼らは、イエス・キリストの受肉を否定し、キリスト教徒には罪がないと主張し、また、兄弟愛を軽視したのです。

彼らの考えを少し詳しく見て見ますと、まず、「イエス・キリストの受肉を否定したこと」であります。彼らの主張によれば、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を授けられた時に、霊であるキリストが肉なるイエス・キリストに結合したけれども、十字架のご受難に先立って、再びイエス様の体を離れて、神の許に帰った、というのです。そして、また、彼らグノーシス主義者は、自分たちが、「罪を超越している者」と悟りすまして、「もはや、自分達は、罪の力に誘われることはない」と主張するのでした。従って、彼らは、イエス・キリストの十字架上の死による、罪の贖いや、人間に対する罪の赦しを、必要ないもの、と考えていたのです。このような考え方から、彼らは、神の戒めを守る義務があるとは、思わないのです。中でも、兄弟愛の戒めを、ことさらに無視するのでした。

ヨハネは、異端の教師たちが、「イエス・キリストの受肉を否定した」ということに関しては、2:22節以下で反駁しています。そこでは、「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、誰でありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ、反キリストです。御子を認めない者は、誰も御父に結ばれていません。御子を公に言い表わす者は、御父にも結ばれています」と説いています。次にヨハネは、グノーシス主義者が主張する、「自分には罪がない」という点に対して、反駁しています。1:8節です、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」と説いています。また、異端の教師たちが、傲慢にも、「自分たちは罪を超越している者」と豪語して、神の戒めを守る義務はない、と主張していること。とりわけ、「兄弟愛」を軽んじていることに対して、ヨハネは反駁します。2:11節で、「しかし、兄弟を憎む者は、闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇が、この人の目を見えなくしたからです」と説いています。

ヨハネは、「神は愛です」と語り始めます。これは、直ぐ前の8節の言葉、「愛することのない者は、神を知りません。神は愛だからです」という言葉の繰り返しです。そして、「愛に留まる人は神の内に留まり、神もその人の内に留まって下さいます」と続けています。三段論法のようではありますが、「神は愛です」という命題から、神と愛とが等しいものとされています。そうしますと、愛に留まる人は必然的に、神に留まる人になるのです。次に、ヨハネは、私たちが神の愛に留まるのには、根拠があると語りだします。そして、その根拠を、「まず、神様が私たちを愛して下さったからです」と言っています。「神の愛を経験して、初めて私たちは、本当に愛することが出来る」と言うのです。

そうすると、“神を愛する”為には、どうすれば良いのでしょうか。ヨハネは、20節で、「神を愛している」と言い乍ら、兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です、と記しています。神を愛していると言い乍ら、兄弟を憎んでいる人々、それはグノーシス主義者の、異端の教師達を指しています。彼らは、神を知り、神を愛していると自慢しながら、律法を不要なものとして、兄弟愛を蔑ろにし、目をくれようとはしませんでした。

ヨハネは、「神を愛する者は、兄弟姉妹をも愛する」と言っています。そこには、分けることのできない一体性があると言うのです。ですから、兄弟を憎みながら、神を愛しているというグノーシス主義者の異端の教師たちは、偽り者、うそつき、と断罪されてしまうのです。ヨハネの理屈は、いつも見ている兄弟姉妹を愛しない者が、目に見えない神を愛することが、出来る筈はない、という主張なのです。

私たちも、神を愛する歩みをいたしましょう。それは、兄弟姉妹を愛することによって実現するのです。





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