説教

2013年7月14日

恵みの種
大坪章美


コロサイの信徒への手紙 4章 2-6節



パウロが、コロサイの人々と交わりを持ったのは、紀元53年から56年にかけて行った第三次伝道旅行の時でした。当時パウロは、エフェソとその近辺に3年間もの長い間滞在して、福音を宣べ伝えたのです。当時、主の教会が無かった、ラオデキヤ、ヒエラポリス、それに、コロサイからも熱心な人がエフェソに来て、泊まり込んで福音を聞いたのです。そして、彼らが故郷に帰って、教会を建てたのです。そのうちの一人が、コロサイから来ていたエパフラスでした。

そして、この手紙が書かれた時、パウロは、ローマの牢獄の中にいました。コロサイの教会に、憂慮すべき事態が発生していたという問題を、ローマの獄中にあったパウロへ知らせたのが、コロサイ教会の建設に奔走したエパフラスでした。彼と、その仲間たちが、コロサイの人々に、福音伝道をした頃は、パウロが語った純粋な福音を説いていました。然し、時が経つに従って、この純粋な信仰を脅かす事態がコロサイの教会内に起きて来たのです。その後、コロサイの信徒の群れに加わったある者たちが、自分たちの間に流行していた儀式や、宗教哲学からの空想的な作り話によって、単純である筈の福音に、様々なものを取り入れようとする傾向を見せて来たのです。パウロは、この危機に直面して、自らの身が、処刑前の状態でありながら、この手紙を書いたのでした。

パウロは、これらの異端に対して、決定的な言葉で反論します。2:9節以下には、「キリストの内には、満ち溢れる神性が余すところなく、見える形として宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです」と教えています。「あなたがたは、キリストにおいて満たされている」という言葉は、実に驚くべき言葉です。「満たされている」という言葉は、「完全なのです」と訳することができます。パウロは、私たち、キリスト者は、キリストにあって、完全なのだ、と言っています。キリストは、完全な“義”を持っておられます。そして、キリスト者は、キリストの義によって正しいとみなされています。

このように、キリストにあって既に完全であるコロサイの信徒には、異端の教師たちが主張するような、余分な理屈や、人間の言い伝えに、惑わされることは何もないのだ、とパウロは言っています。

パウロは、自分の為にも祈って欲しいと、コロサイの信徒達に頼んでいます。パウロは、自分の力ではなく、神様が御言葉の為に、門を開いて下さるように、共に祈って欲しいと願っているのです。パウロの最大の願いは、福音によって明らかにされた、イエス・キリストという神の奥義、「神の秘められた計画であるキリスト」を人々が受け入れるように努める事なのです。

また、5節では、「時を良く用い、外部の人に対して、賢く振る舞いなさい」と、勧めています。そして、パウロは、外部の未信者に対して接する方法を述べています、「いつも塩で味付けされた、快い言葉で語りなさい」と勧めています。外部の未信者の人々と接する時には、「いつも、風味豊かな味わいの、優しい言葉で語りなさい」ということでありましょう。

旧約聖書に出てくる、預言者ホセアも、イスラエルの理想的な姿を預言しました。ホセアは、イスラエルの耕すべき新田、新しく開墾すべき田や畑について語っています。現代の世相、政治・経済は発展を遂げても、霊的に沈滞した世相と重なる思いがします。神の言葉が語られます、「恵みの業をもたらす種を蒔け。愛の実りを刈り入れよ」と命令されます。然し、地上の欲望を追い求める、この世の人々には、届きません。地上の繁栄を願う者には、恵みの種は蒔けないからです。恵みの種を蒔く時は、時には涙しつつ蒔くことになります。然し、喜びの声を上げて、愛の実りを刈り入れるのです。

このホセアの預言は、パウロが、外部の未信者に対して語るように勧めた、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」という命令によって実現した預言でありました。私たちも、折りが良くても悪くても、恵みの種を蒔き続ける者でありたいと願います。



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