説教

2013年6月30日

祝福は悔い改めの中に
大坪章美


使徒言行録 3章 16-26節




ある日、ペトロとヨハネは、午後3時の祈りの時に、神殿に上って行きました。そして、こういう大勢の人が集まるところには、また、物乞いもよく姿を見せました。やはり、この時にも、生まれながらに足の不自由な男が運ばれてきました。そして、まさに、ペトロとヨハネが神殿に入ろうとしているのを見て、施しを願ったというのです。それに対して、ペトロは、「私には、金や銀はないが、持っている物をあげよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」と言って、右手を取って立ち上がらせると、たちまちその男は、足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出したのでした。民衆の驚きが、「彼らは、それが神殿の美しの門のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こった事に、我を忘れるほど驚いた」と記されています。

ペトロは、いましがた、行われた“癒しの奇跡”の説明をしようとしています。この、生まれつき足の不自由な男に、癒しをもたらしたのは、一体何なのか。二つの要素が説明されています。一つ目は、「イエスの名」が癒したという説明です。「ナザレの人、イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」というものでした。もうひとつは、「その名を信じる信仰」が癒した、という説明です。イエス・キリストに向けられた信仰を通して、奇跡は実現するのです。

次にペトロは、「ところで、兄弟たち」と改まった調子で語りかけます。「あなたがたが、あんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に、無知のためであったと、わたしには分かっています。」と、語りかけています。それは、「メシアであるイエス・キリストを、嘲り、侮辱したうえ、十字架につけて殺してしまった」ことを指していますが、そのことの意味を、ここで、解き明かすのです。「あなたがたと、指導者たちは、イエス・キリストがメシアであることと、メシアの行いが、神の救いの計画に基づいていたことを知らないで、恐ろしいことをしてしまったのだ。」ということを言っています。主なる神様は、「このユダヤ人たちの行いによって、以前から、預言者の口を通して語らせていた、救いの計画を実現されたのだ」と、告げました。ペトロは、このユダヤの民衆に向かって呼びかけます「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」と勧告しています。この“悔い改め”は、将来の希望に繋がるものです。

ペトロは、話を続けます。「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主は、あなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わして下さるのです」と、予告しています。今、主イエス・キリストは、復活され、天に昇られた後、現在に至るまで、父なる神様の右に座しておられます。そして、万物が、全ての被造物が新しくされる時、再び地上に来られます。ペトロが予告しましたのは、この、将来のある時、イエス様の再臨の時なのです。ペトロは、この、再臨の時を、「慰めの時」と表現しています。その時は、休息の時であって、地上の生活のあらゆる苦難、あらゆる困窮、あらゆる戦いが無くなるのです。ペトロが19節で、ユダヤ人たちに勧告した、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて、立ち帰りなさい」という言葉の目的は、過去の彼らの罪の赦しのためであると同時に、この、主イエス・キリストの再臨の希望に間に合うためでありました。

ペテロは、神がアブラハムに約束された通りの事が起こったと語ります「それで、神は、ご自分の僕を立てて、まず、あなた方のもとに遣わして下さったのです。それは、あなた方一人一人を悪から離れさせ、その祝福に与らせる為でした。」と言っています。確かにユダヤ人は様々な悪行を行いました。イエス様を嘲り侮辱して殺してしまいました。確かに、それはそうですが、ユダヤ人の祝福は、この悪行への悔い改めの中にあるのです。アブラハムへの約束は取り消されてはいないのです。イスラエルの民は、今でもなお、悪から救われ得るのです。悔い改めの道が残されています。そして、悔い改めの向こうに祝福が待っています。





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