説教

2013年5月19日

なぜ怖がるのか
大坪章美


マタイによる福音書 8章 23-27節




イエス様がガリラヤで伝道されていた頃のことです。ある日の夕方のこと、「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに、向こう岸に行くよう命じられた。」と記されております。

その日、夕闇の中を、イエス様とその後に従った弟子たちを乗せた舟が岸を離れてから、どれくらいの時が経ったか、聖書には明らかに記されてはおりません。「その時、湖に激しい嵐が起こり、舟は波に呑まれそうになった。」と記されています。「その時」という言葉には、「突然」という意味も含まれております。静かな湖面が、次の瞬間には大暴風がたけり狂うという状況になったと思われます。

然し、このような大きな騒ぎの中で、24節後半に、「イエスは、眠っておられた。」というのです。舟が波に呑まれそうになるほど、上下し、揺れ動いていたにもかかわらず、イエス様は眠っておられた。イエス様には、初めから、平安があったのです。イエス様には、父なる神が常に共にいて下さり、守り導いて下さる、という真の信仰がありました。イエス様は、真の信仰による平安のうちにおられたので、落ち着いて眠っておられたのです。

ところが、弟子たちにとっては、大変な試練でした。嵐の真っ只中で、今にも沈んでしまいそうな小舟の上で、イエス様が一緒に乗っておられるというのに、不安と恐怖で頭がいっぱいになってしまったのです。「弟子たちは、イエスに近寄って起こし、『主よ、助けて下さい。おぼれそうです。』と言った。」とあります。

この弟子たちの必死の叫びに、イエス様は答えられました。『なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ』と言われたのです。イエス様は、弟子たちの、嵐に対する恐怖心から来る疑い、に対し、「なぜ怖がるのか」と問いかけて下さっています。イエス様を信頼し切れない、その不信仰に、「なぜ」と問われているのです。「なぜ怖がるのか、怖がる必要はない。」「わたしが共にいるのだ。」と言われているのです。

私たちの信仰生活のうえでも、神様は、時として、試練をお与えになることがあります。私たちは、その試練の過酷さの中で、つい、神様への信頼が遠のき、疑い、絶望の思いに捉われることがあります。イエス様は、そのような疑いの心を、非難されることなく、憐れんで下さり、「なぜ、怖がるのか。わたしが共にいる。」と言って下さるのです。イエス様は、引き続いて、弟子たちに言われました。「信仰の薄い者たちよ」と。
確かに弟子たちは、目の前の嵐の恐怖に、おじ惑いました。そして叫んだのです。「主よ、助けて下さい、溺れそうです。」と。信仰が足りないから怖がりました。怖がったが故に、主への信頼が揺らぎました。今にも、乗っている舟が沈みそうな大暴風の中で、イエス様のお姿から、目をそらしてしまっていたのです。
イエス様が、弟子たちに言われた、「信仰の薄い者たちよ」という短い言葉の中には、イエス様の弟子たちに対する赦しと憐れみとが感じ取れるのです。「大暴風の中にあっても、“怖がる必要はない”“わたしが、共にいる”ことを覚えなさい。」と仰るのです。
マタイは、26節後半で、イエス様の行動を、次のように記しています。「そして起き上がって、風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」。

私たちは、時として、人生の荒波に遭遇することがあります。抗いようも無い強い力の前に、苦しい局面に陥ってしまうことがあるのです。そのようなとき、私たちは、現実に捕らわれてしまい、その苦しさのあまりに、イエス様のお姿から目をそらしてしまうことがあります。つい、イエス様が共にいて下さっていることを、忘れてしまうことがあるのです。
そのような時にこそ、「目をそらさないで、わたしを見上げなさい。わたしは、いつも、あなたと共にいる」と言われるのです。
人生の荒波にあっても、私たちは、イエス様が共におられることを覚えることによって、救っていただき、平安を得ることができるのです。





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